2025/10/15

上田義彦写真展「いつも世界は遠く、」

 逗子の海が見渡せる丘の上に建つ神奈川県立近代美術館葉山館で開催中の上田義彦写真展「いつも世界は遠く、」に行ってきました。下は同館のウェブサイト掲載文です。

2025年7月19日 – 2025年11月3日 上田義彦 いつも世界は遠く、

上田義彦(うえだ・よしひこ/1957–)は、活動初期から自然や都市の風景、著名人のポートレイト、広告写真など幅広い分野で活躍を続けてきた写真家です。瞬間を捉える感性と卓越した技術で、時代とともに変化する作風でありながら一貫して普遍的な美を作品に込め、国内外で高い評価を得てきました。公立美術館で約20年ぶりの本展では、代表作や未発表の初期作品から最新作まで、自ら現像とプリントを手がけた約500点を通じ、その40年の軌跡を辿ります。

とにかくものすごい数の作品で、各フロアに一貫した明解なテーマを見つけることは難しく、ジャンルと撮影年を縦横に往来して彼の内に現れた作品をそこここに置いたのではないかと思いました。「ジャンル」というカテゴライズすることにつながる言葉を使うことは、しかし、彼の本意ではないでしょう。「・・・と思ったらシャッターを切る」 NHK-ETV「アートシーン」のインタービューでそうした趣旨の言葉がありました。写真展の動画では、彼は撮った後で写真を見てそこに何が写っているか考えることが大事と語っていました。いわゆる広告写真もアートとしての写真も区別することは難しいと思わせる彼の写真です。それはジャンルを越えてという言葉を超えた、あるいは、まったく異なる写真のあり様のように思いました。

「・・・と思ったら」という表現は誤解が生じるかもしれません。これまでテレビなどで見た彼の撮影の姿は慎重そのものに見えました。プラウベルマキナのファインダーを覗いて、たしか、蒼井優だったと思うのですが、静かに、じっと対峙して、ある瞬間にシャッターを切って次の瞬間には素早くフィルムを巻き上げてファインダーを覗き続けてシャッターを切る。微かな瞳の輝きをも見逃さない緊張感、緊迫感がそこにありました。「・・・」とは彼の日常のまなざしであり、気の休まることのない日々、刹那ではないのだろうか。撮影が終わってもその緊張感が続いていたと思いました。

作品のいくつかは額装がされていました。油絵の如くです。古めかしく燻したような金色の壮麗な彫りの額はかつて油絵といっしょに画廊や美術館の壁に掲げられていたものかもしれません。たしかに、今回の作品の一定数はまるで絵画のように目に映りました。「静物」はことのほか。そうか、何でもやればいい、何でもできるんだと思いました。写真を撮るという行為、それが広告であっても作品であっても、自分のまなざしを映し止める“だけ”なのだろうと思います。自分の世界を持つこと、そして持ち続けることのエネルギーが伝わる写真展でした。

2025/10/08

井口喜源治先生に学ぶ会

この土日は安曇野と舘林、佐野に行ってきました。安曇野では「井口喜源治先生に学ぶ会」の第2回に参加して、舘林では田中正造記念館、佐野では佐野市郷土資料館を訪れました。佐野市郷土資料館も田中正造の展示が目的です。

井口喜源治先生に学ぶ会は6月の第1回に続いての参加で、2回目となると少し落ち着いてそこに居ることができました。今回は清澤冽の後半でした。恥ずかしながらこの勉強会に参加するまで清澤冽はその名前すら知りませんでした。彼も井口喜源治の研成義塾で学びました。彼の人となり、業績等々はさておき、テキストの個々具体のエピソードのいくつかに目が留まりました。太平洋戦争の最中にあっても『東洋経済』誌上で「時流に屈しない言論」を発表し続けた巧みでしたたかな言論活動の中心的な役割を果たしたこと、とりわけ、昭和19年9月のダンバートン・オークス会議で起草された国際連合憲章草案の原案を国内で紹介したことには驚きました。戦時下でいかにしてその情報にアクセスし得たのだろうか。「挙国一致」の戦時体制の中で戦後日本が進むべき方向を見てその構想を描いていたわけです。彼のような人物が戦時下で日本の行く末、あるいは行く先を論じ描いていたことを学校教育は教えてきただろうか。

この勉強会のテキストは同志社大学人文科学研究所編『松本平におけるキリスト教 井口喜源治と研成義塾』(‎ 同朋舎出版 1979)で清澤冽の章は宮沢正典によるものです。今回の読み合わせの部分310~325ページに登場する人物は93人にも及んでその資料が添えられていたことにも驚きますが清沢の人脈にはただただ驚嘆します。その中には哲学者の西田幾多郎の名前もあります。こうした賢人たちがこんなにいて発言もしている国が太平洋戦争に向かっていったのは今の状況と重なるものがあるようで戦慄を覚えます。だからこそ歴史を学び続けなければならないともあらためて確信する次第。

清澤冽の章の「むすび」に次のブロックがあります。

 リベラルなジャーナリストとして、清沢と近い位置におり、よく似た立場を持したひとりに馬場恒吾がいたことはすでに記した。おもしろいのは、短軀で強靭な清沢も、対照的に、容貌魁偉であった馬場も、ともに青年期においてキリスト教の門をくぐり、アメリカで生活し、それらを通して独特の信念と人に屈することの嫌いな性格をつくりあげていたらしいことである。清沢のもっとも敬愛した石橋湛山も、人格形成期において宗教的経験を経ていたことも間違いない。清沢の直截さは、ときに嫌悪されることもあった。しかし、そうでありながら、弱い立場のものには寛容であり、強大なものに対して、すでに、十六歳のときその片鱗を示したように、それを生涯にわたってもち続けたのであった。また、実に多彩な人物に接しながら、自己を失うことなく、あの困難なときにも、抵抗のための孤立しない知恵を身につけていた。

「人格形成期において宗教的経験を経ていた」とは具体的にどういうことなのか。石橋湛山は日蓮宗のはずです。宗教的経験や宗教体験といわれるものはどういうことなのだろうか。また、松本平でのキリスト教はどのようなものだったのか。いつか追いたいテーマです。

今年度の勉強会、最終回は2月7日の第4回で、テキストは手塚縫蔵の章に入ります。私は思いがけず最終項の「時代感覚~求心的信仰」の読み手を担当することになりました。手塚縫蔵の名前は信州の教育を研究する中でいつもちらちらと視野に入ってきています。そして、藤田美実の導きにより手塚縫蔵こそ私の研究の核心を占める人物ではないかと気づき始めています。何という偶然、僥倖かとその幸せと責任を噛みしめています。

手帳の憂鬱と愉しみ

さすがに新しい手帳を買い求めることに慎重になるほどいろいろ手元にあります。物欲といってしまえばそれまでですが当の本人はそこにあたらしい何かを生み出そうとする思い入れがあってのことと、これも都合のよいことを考えています。手帳歴をその意味での生産性という視点で遡ると後々見返して役立つ...