“付録”というのは加島祥造著『伊那谷の老子』(淡交社 1995)といっしょに届いた新聞などの切り抜きのことです。本も切り抜き記事も茶色に変色していましたが入っていたビニール袋は擦れや折れもなくきれいで真新しいものでした。これは古書店の心づかいだと思っています。本もたいへん面白いのですがこの切り抜きもまたたいへん興味深いものでした。加島祥造が書いたり記事になったりの全7点です。
「老子とは生き方なのだ」(西垣通)(新聞切り抜き 1999年4月11日)
「閑ヲ愛スレバ」(城山三郎)(『本』2000年3月号)
「老子の時間、道元の時間」(中野幸次)、「ナガノのフォークナー」(加島祥造)(『図書』615号 2000年7月号)
「ふたりの娘とシンクロニシティ」(加島祥造)(『一冊の本』 2004年7月号)
「受いれる心5」(加島祥造)(『月刊 本の窓』2011年7月号)
「受いれる心8」(加島祥造)(『月刊 本の窓』2011年11月号)
「詩人が語る自由」(河合香織)(『本の窓』 2014年6月号)
私がまず目を通したのは中野幸次の「老子の時間、道元の時間」でした。やはり英訳と独訳を通じて老子に親しんだという記述がありました。
(略)わたしは、加島祥造の『伊那谷の老子』(淡交社)を詠んだ。『老子』は、従来の漢文読み下し式ではちっともわからず、興もわかず、中国古典のなかで最も無縁な古典だったが、加島が体験を語りつつ訳してみせる老子は実に生き生きとしていて、身近に感じられ、わたしはこれならわかると思った。彼は英訳がたくさんある中から読み取って、自分の自由な訳をつけている。
加島はその後『タオ ― 老子』(筑摩書房)を著したので、それによって老子はますます私の身近なものになった。わたし自身も英・独訳を十数種類とりよせ、外国語訳を通じて老子に親しんでいった。
中野幸次はドイツ哲学が専門なのでドイツ語を解するわけで、彼もまた寺田寅彦や加島祥造と同じく日本語圏ではないところから老子を身近に感じるようになったと記しています。加島は英訳を通して老子を読むとき「老子を外国語として読む」と記しています。(『伊那谷の老子』)漢文を外国語として捉える、あるいは捉え直すことで何がどう変わるのだろうか。これは何を示唆しているのだろうか。外国語と捉えることで言葉の縛りのようなものから逃れて自分の言葉で語ることへの抵抗感が薄らぐのだろうか。ざっくりした言い方になりますが、とりわけ漢文は漢字で記述されていることから日本語に引き付けようとする研究の側面に縛られるのではないだろうか。もちろん、英訳でも「原典の古意に忠実な逐語訳」(加島) は読んでいて面白くないものもあるとのこと。
『源氏物語』 はどうだろう。加島の老子和訳の底本となったのはアーサー・ウェイリー訳だけではないにしても毬矢まりえ・森山恵和訳の『源氏物語』の底本もアーサー・ウェイリー訳なのです。アーサー・ウェイリーの功績はとてつもなく大きいというべきだろう。