2026/06/27

『マリウス・プティパ自伝』の「オマージュ」より

ここ2年ばかりマリウス・プティパ著、石井洋二郎訳『マリウス・プティパ自伝』(新書館 1993)を探していてやっと入手することができました。著者はサンクトペテルブルグ帝室劇場(現在のマリインスキー劇場)で60年にわたってバレエ・マスターを務め、チャイコフスキーのバレエ音楽の誕生にストーリーのみならず音楽にも関わったとされています。そのあたりのエピソードが記されているのではないかと興味津々でした。本が届いて、ざっと目を通したばかりですが、彼の人生がいかに創造性に満ちていたことかと読みながらわくわくしました。チャイコフスキーとの接点はというと作品の核心に触れる記述というよりも制作のスケジュールや多分に劇場などとの調整にかかるものと、現時点では捉えています。取り急ぎの拾い読みで私の目を釘付けにしてのはページのおよそ半分を占める「プティパへのオマージュ」のジョージ・バランシンのインタビューでした。ここでその全文を引きたいところですが次の2か所を取り上げます。

フランスのオペラ劇場が衰えつつあったのにたいして、大きな活力がみなぎっていた当時のロシア演劇界に、プティパはフランス的エレガンスの精髄、視覚的なフォルムの絶対的完璧さの感覚、高度な人間的象徴性などをもたらしました。当時の西欧では、バレエに一種の因習的な詩学を押しつけようとする傾向がありましたが、それにたいして、彼は踊り手の重要性を強調しました。そもそもこの因習的な詩学というのは、じつのところ、オペラを気取った幼稚なパントマイムにすぎなかったのです。こんにちでもなお、プティパの作品はぞっとするような型通りの演出で毎年のように上演されていますが、そうやってこの伝統は、いまだに後生大事に守られているのです。(P.158-159)

この中の「彼は踊り手の重要性を強調しました」というフレーズは、バレエの作品は上演されるその都度新たな発見と生命性が見いだされることで作品そのものがコンテンポラリー性を得ていくものであることを指摘していると捉えています。一人ひとりの踊り手の身体性がバレエにその都度生命性を与えるという考え方です。同じ演目の同じパ(pas)であっても個別具体の創造があり、その都度異なる姿がそこにあるのではないか。私がミュージック・ケアとバレエに共通する琴線を禁じ得ないのはこの点ではないのだろうか。

そして、言葉です。

しかも彼は、ヴァイオリンの名手であり、すぐれた音楽家でもありました。作曲家にたいしても、専門家の言葉で話ができました。チャイコフスキーは、彼を敬愛していました。プティパはピョートル・イリイチに、まさにその音楽が求めていたものを与えたのですから。しかもその音楽の要求を満たすのは、容易なわざではなかったのです。(P.159-16)

同著の「眠れる森の美女」の「ピョートル・チャイコフスキーのために、マリウス・プティパによって構成されたバレエの音楽・舞踊プラン」は「チャイコフスキーがこのバレエ音楽を作曲する下敷きになった、簡素なプランの素描」とのことですが、物語の進行に沿った音楽のイメージは作曲家がスコアに書き込む音楽用語の発想用語というのだろうか、「荘厳に」など演奏への指示を示す言葉が書き込まれています。作曲家がそうした「プラン」に沿って創作を進めるとき確かな手応えがあるのではないかと想像することができます。

ところで、ジョージ・バランシンとは何者なのだろう。Wikipediaでは「バランシンは、19世紀に確立されたクラシック・バレエから物語性を排し、純粋な身体の動きを追求した作品を生み出したことにより、20世紀のバレエに多大な影響を与えた[2]。」とあります。なるほど、と腑に落ちるものがありました。「マリウス・プティパへのオマージュ」所収の彼へのインタビューの見出しは「最も偉大な巨匠」(P.154)です。「最も偉大は巨匠」ゆえに「因習的な詩学」を乗り越えてその都度の、その都度限りの創造性と生命性を見いだす場面を直視することの重要性を示していると考えられます。

今回、バレエとミュージック・ケアに共通する核心について大きな示唆を得たものと受け止めています。

2026/06/20

2台のX-H2

 X-H2の2台目が届いて2台体制になりました。XシリーズはX-30、X-E3、X-H1、X-T4、X-H2と使ってきましたがやはりX-H2の画質を同じ使い勝手でもう1台使っていきたいと考えました。巷ではT5の評判が良いようですが私は手に馴染むX-H2が好みです。フリマサイトで探していて「文句なしのコンディション」という個体を見つけました。面白いのは説明に「最新版バージョンでは削除されたチェキプリンターへのダイレクトプリント機能を使いたかったのでバージョンは最新まで上げていない希少な状態です。※もちろん最新版にアップデートは可能です。」とあったことです。こんな使い方もあるのかとけっこうマニアックだと思いました。私は最新のファームウェアにアップデートするつもりです。2台のX-H2の使い分けは、1台は標準〜望遠のズームレンズを着けて、もう1台は超広角望遠レンズを着けての運用です。山で使うときレンズ交換の回数を極力少なくしたいことによります。また、2台目のブラケットは1台目に着用のものと色だけちがう赤の同型のものを見つけて調達しました。モチベーションが上がります。

先日、井口喜源治先生に学ぶ会が終わってから蓼科まで走って宿泊し、翌日はバラクらイングリッシュガーデンを訪れました。カメラはX-H1とX-H2を用意して、X-H1にはTAMRON 18-300mm F/3.5-6.3 Di III-A VC VXD B061 、X-H2にはFUJIFILM XF10-24mmF4 R OIS WRを着けっぱなして回りました。フィルムシミュレーションは「S」(アスティア)に設定しました。いろいろ初めてのシチュエーションで補正も迷ってこれという写真を撮ることはできませんでしたが勉強になりました。

富士フィルムかキャノンか!? この堂々巡りにこれでなんとか終止符を打ちたいと思っています。かといってキャノンの機材をすべて手放すことができるかというとやはりその自信もありません。少しずつ整理することになると思います。

2026/06/19

第1回 井口喜源治先生に学ぶ会

先日、安曇野で開催された井口喜源治先生に学ぶ会に参加しました。今年度の読み合わせのテキストは穂高町立穂高中学学校編『孜々として 安曇野・穂高町の人物群像』(2000年)です。中学校編とあるので随筆集のようなものかと思いましたが研究書然としています。学校がこのような本を編纂するというのも信州ならではか。この本をテキストとするということであらたに読み合わせに参加した人も何人かいてこれにも驚きました。穂高の文化面の層の厚さを思いました。テキストそのものはページ数が多くないこともあり、必然、行間を読むことになります。その日の読み合わせの感想を述べる時間があって、私はキリスト教から人権思想を想起したことに触れました。人権思想はフランス革命期にそのルーツが見いだせるする説がありますが、キリスト教の教えの言葉を辿ると人権思想が自ずから生まれるのではないかと考えることがあります。次回は10月で、私は「井口喜源治の教育」のところを担当することになりました。ちょうど人権思想とキリスト教について本を読み思い巡らせているのでその視点も入れてコメントしていきたいと思います。

2026/05/21

障害の「実存モデル」

Xで障害の「実存モデル」という言葉を知ってリンクをたどると東京芸術大学のサイトでした。2018年度の「ダイバーシティ実践論」(担当教員:日比野克彦(東京藝術大学 美術学部長))の「当事者との対話4」「バリアフリーとは何か」という講義の概要で講師は東京大学の福島智氏でした。以下、一部の引用です。

障害を巡っては、現在、「医学モデル」と「社会モデル」という言葉がよく使われています。医学モデル=障害を治す。社会モデル=周囲のサポートを整備する。福島先生は、医学モデルと社会モデルからはカバーできない問題を、「実存モデル」で捉えないかと考えています。社会モデルではタッチできない問題、例えば、障害から起こる不便さに対してはサポートをするが、どのように障害と向き合うか?という問題は、本人の問題として放置されてしまいます。障害から起こる辛い経験から、どのように生きる意味を見出すかは本人にとって重要な部分であり、社会モデルを補うモデルとして、実存モデルを今後研究しなければならないと締めくくりました。

それから8年後の今年、毎日新聞にやはり福島氏が障害の「実存モデル」に触れた記事が載りました。以下、毎日新聞webからの引用です。(毎日ユニバーサル委員会 第22回座談会「見えない世界」共有するには 朝刊特集面 毎日新聞2026/3/15 東京朝刊)

 障害の捉え方には主に四つのモデルがあります。一つは、障害は心や体の医学的な現象の問題と考える「医学モデル」。二つ目は、障害を生み出す原因は社会的な設備などが整っていないためと考える「社会モデル」。三つ目は社会的な差別や偏見で人権が侵害されているかどうかで考える「人権モデル」。四つ目は障害者は独自の文化を有しているという「文化モデル」です。

 私は、これら四つのモデルだけでは障害者が現実に体験する「障害」を把握するには不十分と考え、五つ目として「実存モデル」を構想しました。例えば、視覚障害者の「見えない、見えづらい」というリアルな体験に共感することを目指すなら、まずは不便で一定の苦悩をもたらす感覚を共有すべきでしょう。問題はその後です。

 「社会モデル」的アプローチで、どのようにサポートするか考える。人権侵害にさらされていれば制度的課題として考える。視覚障害の体験を一つの文化として捉え、異文化交流の視点からアプローチする。いずれも重要ですが、「見えない」という現実は変わりません。不利益や不便さをサポートすると共に、なお残る「見えないことへの苦悩」にどのように共感していくかが大切だと思います。

 見えない苦悩を理解しつつ、そうした中でも人は他者と幸福な関係を築いていけるのではないかと発想を変えていく。現代社会はなにかが「できる」ことに対し、過度に価値を置きすぎていないか。「見ること」ができるかできないかという次元を超えたところに、人が幸福に生きるための鍵がある。

障害を巡る諸相については「医学モデル」と「社会モデル」がよく知られてきましたが「人権モデル」と「文化モデル」については名づけられたことによってそれらの相が際立って認識されます。「人権モデル」は「社会モデル」にそこはかとなく含まれていたと言えますが、そう名づけられることであらためて吟味されることになります。「実存モデル」という言葉、概念の経緯は詳らかに承知しているわけではありません。福島氏の提唱によるものなのかもしれません。しかし、「実存モデル」という言葉で想起されるのは「障害の受容論」です。端的に言うと「障害の受容の押し付け」です。「実存モデル」はそうした一方的な認識の押し付けへの抵抗、抗いとして名づけられた一面があるのではないだろうか。言うまでもなく当事者たちは日々問うてきたことです。その思索を深め、言語化し、共有や共感をまなざす営みへと誘う概念ではないでしょうか。福島氏の発信に期待するものは大きい。

2026/04/17

タブレットの憂鬱

ここしばらく、iPadの液晶にムラが出るようになったり相変わらずパソコンのiTunesにつながらなかったりとストレスをかかえて気づけば9年になりました。Lenovoのタブレットを追加したものの動作がかなり緩慢でまたiPadを新調しようと我慢の日々が続いていました。そうこうするうちにiPadの値段はどんどん上がって手が届きそうにないと思えてきました。そんなとき、Android搭載のXiaomi Tab 8 proがかなりよさそうで純正のペンシルがプレゼント、やはり純正のキーボードカバーが10,000円引きというキャンペーンの期限が迫る中で購入に踏み切りました。決して安い買い物ではありませんが「iPadがいらない」くらいの性能という記事が散見されたので決心がついた次第。果たして、届いてみるとその薄さ、軽さ、精緻なモニター、そして、何よりも表示が私が知っているAndroidtとは思えない円滑さでした。まさにヌルヌルです。快適です。申し分ありません。ストレージは本体の128GBのみで一抹の不安はありますがテキスト中心でクラウドを使っているので心配ないでしょう。純正のペンは品切れで後日届くとのこと、純正キーボードはパッドなしの軽いモデルにしました。ただ、普段はキーボードなしの軽いカバーの方がキーを気にすることなく持てるので使い勝手がよい。これも使い分けです。そうなると旅行などではノートパソコンよりもタブレットの方が何かと便利ではないかとあれこれ考えています。軽いカバーを着けてキーボードはBluetooth接続の折り畳みタイプというスタイルが現実的かと。

※追記 2026.4.26

やっとXiaomi Tab 8 ProにBluetooth接続の折りたたみ携帯キーボードをつないで実戦投入する機会がありました。全く申し分ない使い勝手でした。今年度は何度か出先でテキストを打つ機会があって機材をどうしようかと悩んでいましたが解決です。キーボードのメーカーはEwinで、2020年に購入したもののどこかにしまい込んで見つからず2024年に再度購入しました。なんとも不甲斐ない。

2026/04/08

来生たかお 夢のあとさき〜40th Anniversary Symphonic Concert〜

1984年というと42年前のことになります。来生たかおのアルバム、といってもレコードですが、「ラビリンス」がリリースされた年です。たしか、地元のレンタルレコード店で借りてカセットテープにダビングして聴いたはずです。惹かれるものがあって今なお聴き続けています。CD盤は買い求めました。なぜそんなにも惹かれるのか。その理由(わけ)を書こうとすると月並みな言葉しか出てきそうにありませんが、レヴォーグに乗り換えてからクラシックが思うように聴けなくなってからは来生たかおをよく聴くようになりました。「ラビリンス」とベストアルバムです。先日、レヴォーグのオーディオが直ったのでそれこそ浴びるように聴いています。そして、来生たかおの歌をもっと聴きたいとiTunes Storeを覗いていたら「40th Anniversary Symphonic Concert 2015-2016 ~夢のあとさき~」というアルバムを見つけて試聴したところまたまたはまってしまいました。バックはオーケストラとバンドで、2015年~2016年の録音なので来生たかおは65歳~66歳にかけての録音だと思います。遅めのテンポで歌う来生たかおのやわらかい声とやはりやわらかなオーケストラのアンサンブルがなんとも言えない豊穣な音楽を醸し出しています。そして、YouTubeでそのときの映像だろうか、ジャケットを羽織った来生たかおが老眼鏡と思しき眼鏡をかけて腰かけたまま楽譜を見ながら歌う姿は単に過去の作品をそのまま歌うのではなく歌とともに歳を重ねて余白をも包み込んでいるように思いました。YouTubeには2000年の旭川公演とする映像もあって、このとき彼は70歳のはずです。髪は豊かなロマンスグレーでやはり座って楽譜を見ながら歌っています。一つひとつの言葉、音をていねいに歌う姿は心を打つものがあります。歌とともに歳を重ねるというのはこういうことなのだろうかと思い巡らせました。早速このアルバムを取り寄せてレヴォーグで聴いています。このままどこか遠くに走っていきたいと、そんな思いが過ぎります。

2026/04/04

レヴォーグのスピーカー修理

レヴォーグのオーディオがクラシック音楽と相性が良くなさそうと前に書きましたが聞こえ方や音質がどこかかおかしいと思っていたところ左前のスピーカーから蚊の鳴くような音しか出なくなってスバルのディーラーで見てもらいました。すると左前と後の左右の計3つのスピーカーが内部で断線していることのことでした。先週、部品を取り寄せてもらって修理が終わりました。結果、大満足です。右前も音は出ていたのですが低音が細くてイコライザーの効きもよくありませんでした。修理で元に戻っただけとはいえレヴォーグが包み込まれる音場空間となって心理的に楽になりました。5個目のスピーカーであるサブウーファーも協調して低音域をよく支えています。もちろんクラシックも堪能できます。片道30kmの通勤も短く感じます。やはり私は音楽が好きということをあらためてしみじみと思いました。

名古屋大須のアメ横にあるオーディオ専門店では客の希望でアンプやスピーカーなどを組み合わせで試聴することができます。私はそこでいっしょに聴かせてもらったことが何度かあります。いつも思うのは音楽のジャンルはいろいろあっても音そのものが聴く人を幸せにすることができるということです。生きていることに幸せを感じるといっても過言ではありません。レヴォーグのオーディオもそれに近いものがあるように思います。音源はiTunesで同期したiPhone 5SをBluetoothでつないでいます。私の耳には十分な音質です。

一番のリスニングルームが車というのも情けないですが音漏れを気にせずある程度大きな音で聴けるのは車です。音の分離もなかなかのもので歌だけでなくバックの音の重なりやベースの動きなどもよくわかって聴き入ってしまいます。 


2026/03/28

Bandit 4回目の車検

Bandit 1250SAの4回目の車検を済ませました。バイクの車検はこれまで購入したバイク店で“お任せ”にしていましたが、そこまでバイクに乗って預けたり受け取ったりの移動、天気、そのための時間の確保などのすり合わせが煩わしいものでした。そこで今回は立ち合いで即日済ませる整備店で車検を受けることにしました。天気予報を見て電話で予約、当日は1時間で終わりました。この2年間の走行距離は2,000㎞弱なのでブレーキパッドとタイヤはほどんど減っておらず、立ち合いでタイヤ溝などの数値を含めた説明を受けました。「ブレーキオイルを自分で交換していますか?」と聞かれたのでどうしてだろうと思っていたら、リアブレーキのオイルが上限を超えてタンク一杯まで入っているので漏れ出してパイプを止める金具が錆びているのを「これ」と示して見せてくれました。ブレーキオイルは交換はおろかリザーブタンク内の量はカバーを外して見たこともなく前の車検のときの交換したであろうそのままでした。金具は置いてないということで後日近くのバイク店でオイルといっしょに交換することにしました。立ち合って話を聞くことで自分のバイクの状態をよく知ることができてバイクのもやもやが一気に晴れたように思いました。バイクのもやもやとは今のフルタイム勤務になってから乗る時間がほどんどなくなったこと、そのことでバイクが傷むことへの自分の不甲斐なさ、維持費も乗ってこそのものなのにというやり切れなさ、その上に加齢による体力の低下も懸念材料となっていました。バイクは自分で手をかけてこそ愛着が湧くものと実感しました。

2026/03/26

上笙一郎・山崎朋子『光ほのかなれども 二葉保育園と徳永恕』

大石茜の著書を読んでいるときいろいろ調べだして上笙一郎・山崎朋子著『二葉保育園と徳永恕』(社会思想社 現代教養文庫 1995, 初刊 朝日新聞社 1980)を知り取り寄せました。読みだしたら止まらなくなって400ページ余を3日で読んでしまいました。上笙一郎は『満蒙開拓青少年義勇軍』(中公新書 315 1973)を読んだとき内容もさることながらその語り口調に魅了されてしまって今回も然りでした。内容は驚愕という表現がもどかしいほどのインパクトがありました。読み進めるうちに著者が言及しているように徳永恕が成したことの大きさとそのために棄てたもの、そして、なぜそうなし得たのかという強さはどこからきたものなのかということが気になりました。著者は17~18年をかけて出版に至ったとのことでその内容は膨大かつ密度が高く、読み終わりはしたもののその読後感なり学びを言語化することは難しい。いつかここで触れることがあると思いますが今日は備忘として読了したことを記すのみとします。

2026/03/20

ライシテ展

いつしか3月も半ばを過ぎてまだまだ風が冷たいと思っていたところ今日は何かがちがうと思うほどの芯が感じられるほどの暖かさでした。そうか! 今日は彼岸ではないか! 暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものです。

今日は県立美術館の企画展「ライシテからみるフランス美術 信仰の光と理性の光」に行って来ました。職場の廊下に掲示されたポスターに「ライシテ」とあって何だろうと思っている間に企画展終了の22日が迫っていました。果たして「ライシテ」とは何か。展示室の入り口の説明を読んでもピンときません。同じ説明が美術館のウェブサイトにあります。

「ライシテ」とは、国家が宗教から自律し、人々に信仰の自由や精神的平等を保障する制度、そしてそれを支える思想のことです。フランス共和国の根幹をなす概念ですが、異なる宗教を信じる/信じない人々の共生のための理念から、政治権力と宗教の厳格な分離に至るまで、ライシテは複数の顔を持ちます。

単なる政教分離ではなさそうです。キャプションを読んで絵を観てもわからない。それなのに読んで観て読み返してまた観ての繰り返しをしてしまう。つまり面白いということです。入口に「図録完売」とあったのも頷けました。では、その面白さはどういうことなのか。よく言われるように学校の授業では教えてくれない歴史の見方がそこにあるのではないかという予感が惹きつけるのだと思います。政治と宗教の関係が社会の制度として語られるだけでなくそのせめぎあいに絵画など美術が可視化した「聖性」が深く関わっていそうです。説明に度々登場する「聖性」ですがこの言葉はどう定義されるのだろうか。フランスの政治と宗教は両者の距離をどう置いても両者は関係しあっているのではないかと思いました。これはフランスに限ったことではないはずです。欧米諸国におけるキリスト教は距離の置き方如何に関わらず深く強くつながっているのではないか。哲学然り。明治時代にキリスト教抜きでドイツ哲学を取り入れようとしたのは思慮深さに欠けたことだったと思います。今回のライシテ展のキャプションは私には手強いものでしたがそれだけに興味津々でした。

来館者は多いと思っていましたがまばらだったので時間をかけてゆっくり観て回ることができました。

『マリウス・プティパ自伝』の「オマージュ」より

ここ2年ばかりマリウス・プティパ著、石井洋二郎訳『マリウス・プティパ自伝』(新書館 1993)を探していてやっと入手することができました。著者はサンクトペテルブルグ帝室劇場(現在のマリインスキー劇場)で60年にわたってバレエ・マスターを務め、チャイコフスキーのバレエ音楽の誕生にス...