前々から気になっていたこの本(淡交社 1995)をオークションサイトで入手しました。写真よりも薄汚れていて何だかなあと思いましたが葉書サイズのビニール袋が同梱されていてこちらも何だろうと思いました。入っていたのは黄ばんだ新聞の切り抜き1点と『本』など出版社が出していた小冊子の切り抜き6点でした。それぞれに「加島祥造」や「老子」の文字が見えました。気になったもののまずは本です。
この本が頗る面白くて「伊那谷の老子」の章は付箋だらけになっています。驚いたのは加島祥造が手掛けた老子の翻訳は原文である漢文からの翻訳ではなくて英訳された老子からの和訳だったことです。アーサー・ウェイリーの名前を見たときはまた驚きました。ウェイリーは『源氏物語』も英訳しています。その英訳を毬矢まりえと森山恵が和訳して2年くらい前に話題になりました。読みやすくて物語の世界がイメージしやすい本となっています。登場人物の輪郭、人となりがそのまま伝わってきて活き活きどころか生々しくさえ感じられます。加島祥造が和訳した老子もまた然りです。これはどうしたことか。
加島は『伊那谷の老子』にそのことを言葉を換えて幾度も記しています。その部分を引用します。
(略)それは、西洋人の、あるいは英国国民の思考と気質から自然に生まれた傾向であって、日本の老子訳の世界とははっきり違った特色といえるものだ。そのうち、とくに目立つ点を三つだけ言ってみよう。
第一は訳者たちが程度の差はあれ自分の解した『老子』を提出していることだ。(略)訳出するときにはそこから自分の老子像を抽きだしている。
いいかえれば彼らは老子と対面し、対話しようとする。自分のイメージする老子像を、その内面像を、描きだそうとする。さらにいえば、自分にとって老子とはなにか、を明らかにしょうとする。
第二。英訳者たちは老子の実在を否定しない態度である。日本では江戸時代からすでに老子の実在を否定する議論があり、いまでもその方向から見る意見がある。(略)
しかし、英語訳をした人たちは、そういう説を知っていてなお、『老子』の五千言のなかに、老子という一個の大個性を見出す。またそこにこの大個性の深い内観力を愛と大きな叡知がゆきわたっているとみる。老子の生きたスピリットがいまの自分のなかを流れ走ると感じる。そういう生気の動く英訳が多いのだ。(略)
第三の、そして最も印象づけられた特色は、彼らが「老子」を詩(ボエトリイ)ととっている点だった。日本の学者も『老子』の多くの章が韻を踏む詩句だと説明している。説明としてはよくわかる。しかしこの『老子』を「詩」として再現しようとはしない。誰も、いまここで生動する詩行に転じようとはしない。(略)
(略)彼らは『老子』のなかに動くものをとらえようとする。生きて伝わってくる大個性のスピリットを、自分の言葉で表現しようとする。過去の古風な詩体ではなくて、現代口語体の詩として表現しようとする。
物理学者の寺田寅彦も「電車で老子に会った話」という文のなかで同様の体験をしていると加島は紹介しています。寺田の場合は独語訳の老子だがふたりの「老子体験」は共通しているとも。これは何を示唆しているのか。「原典の古意に忠実な逐語訳」(加島)が研究として重要不可欠なのは言うまでもありません。その成果は読解に活かされなければならない。しかし、老子や『源氏物語』を味読する後世の一人ひとりにとっては「原典の古意」と自分との関係においてその作品の意味がある。一人ひとりが意味の生成を経験することが大切と考えます。『伊那谷の老子』の加島訳の老子を読むと私の横に座っている同時代人の声を聴くように感じます。何という経験であることかと驚き感嘆するのです。
※英訳者のArthur Waleyは加島は「アーサー・ウエーレー」と、毬矢まりえ・森山恵訳の『源氏物語』では「アーサー・ウェイリー 」と表記しています。