2024/03/25

漢字と「二つの時間を生きられ」ること

この日曜日の朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)は小津夜景の『ロゴスと巻貝』からの言葉でした。「古典の中だと二つの時間を生きられ、漢文は見えるものと聞こえるものが分かれて快い」とあるとのことです。漢字の字面から受ける意味や印象と読まれたときの音から受ける印象によって「二つの時間を生きられ」るという記述に思わず頷いてしまいました。

高校の古典を担当しているとき、源氏物語などの日本の古典作品から漢文になるとその読みづらさに閉口する生徒も次第に漢文の歯切れ良いリズム感と漢字そのものから立ち上がる世界観に浸るようになるのがわかりました。面白いものでその逆も然りで、漢文から日本の古文に入るとやっぱりいいなぁとしみじみとします。和文と漢文の両方の情趣にふれることができる日本の言語風土は大事にしないといけないと思います。私たちは知らず知らずのうちに双方の世界観にふれて双方の言語観で物事を考え、心がおのずから動く日々を送っているわけです。小学生が漢字を学習するときの様子も面白いものです。ときに漢字の字面や意味の構成で考え、ときに漢字の読みで考え、その双方を落とし込んでいく営みは見ていると不思議でもあり驚きでもあります。

かつての暴走族らは英語の読みを漢字に置き換えて自らをアピールする記号としたことがありました。漢字のゴツゴツした字面をさらに際立たせたレタリングとその含意など漢字の特徴を捉えようとする意図が伝わってきました。彼らも「二つの時間を生きられ」ていたのだろうか。漢字を使ったキラキラネームもまた通底するものがあると思います。こちらも「二つの時間を生きられ」ているのでしょう。

「古文や漢文を学んで何になるのか、将来役に立つのか」と言われてしばらく経ちますが、古典にふれることで「二つの時間を生きられ」るのではないかという視点は示唆に富みます。「二つの時間」は人によってちがってきます。時間ではなく「空間」かもしれないし「世界」かもしれない。メタ認知につながったり自分と対話したりするきっかけににもなるのではないでしょうか。古典に浸る時間がほしいと思います。

2024/03/23

国立国会図書館関西館

 国立国会図書館所蔵の資料をインターネットで閲覧しようとしたら登録が切れていて早く利用したかったのであたふたと奈良の関西館に行って手続きをしてきました。所在地は京都府相楽郡精華町で初めて行きました。けいはんな学園都市という名称で様々な研究機関などが整備されていて国会図書館関西館関西館もそのひとつと知りました。敷地は広大で駐車場は無料でした。エントランスに続く通路から見える概観はガラス張りの細長い箱のようですが中に入ると天井も高く落ち着いた雰囲気でした。

利用登録を済ませて見たかった資料を閲覧するとこれまで引用部分しかわからなかったところの前後や関連する情報を読むことができて目を見張りました。「そうか、そういうことだったのか」と。また、関西館所蔵の資料、学会誌はその場ですぐに閲覧することができてコピーして持ち帰ることができました。これまで限られた資料と対峙して悶々としていたのが何だったのかと思いました。

研究テーマから派生というか拡大してここしばらく大正から昭和初期にかけての教育史を調べています。資料があるようでないものが少なくありません。多分に私の探し方が拙いだけなのですが公文書として残っていそうなものが見当たらないというのは文書管理の問題が大きいのだろうと思います。

関西館は自宅から車で片道2時間弱かかりますが距離は145kmとさほどでもなく土曜日はしばらく奈良通いになるかもしれません。

2024/03/20

山下文男『昭和東北大凶作 娘身売りと欠食児童』

 ここしばらく1920~1930年代の教育、いわゆる大正新教育について調べているのですが、その中で軍拡に向かう国策や経済恐慌、国民の衛生状態(エキリ、結核、栄養等々)、そして、地震や冷害といった自然災害と農林漁村の飢饉が同時進行していることが個々具体の出来事としてわかってきて気になっています。その中で昨日届いた山下文男著『昭和東北大凶作 娘身売りと欠食児童』(無明舎出版 2001)を読み始めたら止まらず、細かな数字は飛ばしながらですが一気に読んでしまいました。

全編を通してこの本が私を惹きつけたのは子どもや学校、教員にかかる記述が多かったことにあります。「娘身売りと欠食児童」という副題通りの濃い内容です。そして、国民生活を省みず軍拡に向かう国、軍部の動きを同時期のものとして並行して記述することで当時の日本が抱える構造的な問題が浮き彫りになっています。

今、日本は貧困が大きな社会問題となっています。学齢期の子どもたちの生活と学びにも大きな影響が出ています。大雑把な捉えですが、この本を読んでいると1920~1930年代の状況が今と重なって仕方がありません。

昭和の東北の凶作のときのものとされる3人の子どもが大根をかじっている写真について著者は「やらせ」であろうと思うと記し、また、娘の身売りについても娘たちの行き先が「その大部分が売春婦であったことはいうまでもない」と某著者が「無神経に断定」していることは「独断に過ぎない」と、その統計を根拠に指摘している。こうした検証は重要だ。

貧困はいつの時代も社会的弱者が被る。そんな暮らしをしている人たちと子どもたちを目の当たりにしたことも多いしこの先もないわけがない。歴史の主人公があるならばそれは誰なのだろう。

「細かな数字は飛ばしながら」と書きましたが、細かな数字、つまり、統計の数字があるからこそこの本の構造がしっかりしているのであってそのことは承知しています。欠食児童の数は所々確認して読みました。しかし、とにかく一通り全編に目を通したい一心でした。

2024/03/03

車山山行

 昨日、八ヶ岳の車山に行ってきました。車山肩駐車場から頂上まで往復約2時間のコースでしたが冬2000m級の冬山の低温を身をもって知る経験となりました。諏訪茅野インターチェンジを下りてビーナスラインにアクセスする道路には所々深い雪の轍があって二駆のスタッドレスでは少々心もとなかったですがビーナスラインは除雪された雪が路側に積まれて狭くなっているものの路面はドライでした。午前9時前に駐車所に着くとすでに50台ほどの車があって準備をしたりすでに山腹まで登ったりしている登山客の姿がありました。

駐車場で靴を履き替えたりアイゼンを着けたり、そしてカメラの用意をしていたら指先が冷たいのを通り越して感覚がなくなっていることに気づきました。オデッセイの車外温度計は-9℃で誤差を考えてもこれまで体験したことのない低温でした。右手中指の爪付近は全く感覚がなくこれは危ないと慌ててウエアのファスナーを開けて指先を脇の下に入れました。次第に指先がジンジンしてきて感覚が戻ってきたのでウールのインナーグローブを着けて準備を続けました。その手袋は薄いのに防寒という点では効果てきめんでした。山に登るときはその上から厳冬期用のグローブを着けたのですが指先の冷えはずっと続いて時々脇の下に入れて温めました。中腹あたりで同行の知人が私の顔を見て「顔が青い」と言うのでびっくりしました。顔の寒さは指先ほどではなく大丈夫と思っていたのですが微風であっても風が当たる左の頬はかなり冷えていたわけです。ハードシェルのフードを被るとすぐに暖かさがわかってこれも初体験でした。天気は上々、風も3m予報で眺望も素晴らしかったのですがその寒さは初めて経験するもので低温の怖さを実感しました。体幹は雪山用のインナーを含め重ね着をしていたのでむしろ暖かいくらいでした。行動時間2時間程度のコースでしたが下山したときは生還したというくらいほっとしました。

カメラはメーカーが-10℃でも問題なく動作するとアナウンスするFUJIFILMのミラーレスを使いました。X-H1にXF50-140mmF2.8 R LM OIS WR、T-X4にはCANON EFS 10-22mm F3.5-4.5+fringer EF-FX PRO2を着けての2台体制としました。低温には何ら問題なく動作しました。しかし、指先の違和感のため撮影に集中することができず構図も露出も何もかもが中途半端となってしまいました。よく見かける何でもない雪山の写真でも相当な準備と困難を経て得られたものであることがわかりました。プロはやっぱりすごいということです。

『レディ・ムラサキのティーパーティー らせん訳「源氏物語」』

 高橋亨の一連の著書と並んで今私が注目するコンテンポラリーの源氏物語論です。とんでもなく面白い。毬矢まりえ・森山恵の共著です。 毬矢まりえと森山恵はアーサー・ウェイリーが英訳した源氏物語を邦訳しています。ひょんなことからその「らせん訳」を読む前にこの『レディ・ムラサキ・・・』を読...