2016/10/30
「往復書簡 緋の舟」
2016/10/29
手作り雑貨
2016/10/28
音階
わたし自身の場合は、恋人ではなかったが、いつかエーヴ・ラヴァリエール嬢の部屋で出会ったあの若いお針女の魅力に(もっと正確にいえばさまざまな魅力に)、恋愛感情に近いものを感じていたと言うべきだろう。彼女は、ある有名な洋裁店で働いていた。夕方の七時に仕事場を出ると、最初に来たバスに飛び乗り、クリシー広場で降りる。それから、コーランクール街をくだって、わたしのアパルトマンの階段を大いそぎで駆けのぼり、部屋の入り口で、わたしと顔を合わせるのだ。わたしもそこで、胸のしめつけられる思いをしながら、いらいらと待っているというわけだ。「ねえあなた・・・わたしを待ってちゃだめよ。・・・勉強しなくちゃ。さあ、早く、ヴァイオリンを・・・」彼女は、部屋のすみの窓のそばに座り、まるでお祈りでもするように掌をくみあわせた。それから、もううっとりとしたような目を伏せた。・・・・夜が、窓ガラスのところまで迫ってきていた。うすくらがりのなかで、わたしは、心をこめて、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、と音階をひいた。一方、そのすてきな若い女性は、わたしが音階を解いたり結んだりするのを耳にすましながら、涙をこぼしてくれたのである。「ねえきみ、何かほかのものをひいてほしくないの?」「どういうもの?」「モーツァルトとかさ!」「いや、いやよ!」「なぜだい? じゃ何かきれいなソナタをひこうか・・・バッハか何かの?」「いや。わたしたちのあいだに、誰か知らない人がいるような気がするもの。・・・音階をひいていると、あなたがわたしに話しかけてるみたいなの」(ジャック・ティボー著、粟津則雄訳「ヴァイオリンは語る」より)
2016/10/27
情緒について
改革や改善という言葉で物事が語られるとき、私は今の有り様に至る経緯、文脈を紐解こうと想像力を目一杯に働かせようとします。かつて、京都市立堀川高等学校の大学進学実績を躍進させた当時の荒瀬校長がNHKの「プロフェッショナル」で取り上げられたとき、校内を漂う荒瀬校長の姿が印象的でした。「漂う」とは番組中の彼の言葉です。五感を研ぎ澄まし、光や陰、風、空気、通奏低音のような雑音の中に身を置いてそうした文脈を探ろうとしていたのではないかと思いました。今回の東京行の車中で読んだ本は斉藤環著『人間にとって健康とは何か』(PHP新書 2016)です。読み始めてすぐに「情緒」という言葉が出てきます。松崎葉一著『情けの力』を取り上げ、「宇宙飛行士の選抜試験でもっとも重要なのは「情けの力」、すなわち情緒性なのだという。(中略)宇宙空間では何が起こるかわからない。まったく想定外の出来事に対応するには、知識や論理の能力だけでは不十分だ。むしろ知識や論理で立ちゆかない事態をどう冷静に乗り切れるかが問われるわけで、そこで「情緒性」が重要になってくるのだという。」と書いています。常に判断と決断をしなければならないポストにある人は少なからずそうしたことに気づいているように思います。私が「情緒」という言葉を考えるきっかけになったのは、10余年前に私のポコ・ア・ポコの音楽療法の場を訪れた人からセッションを「情緒的」と感想をメールで伝えていただいたことです。このとき私はその意味がすぐにはわからず、今以てそのすべてをわかっているわけではありませんが、少なくとも「情緒」という言葉を身近に考えようとしてきました。それからほどなく、藤原正彦氏の「祖国とは国語」をテーマとした講演記録を読む機会があって私の中で結びつくものがありました。「『学問』とは、語彙の習得であり、思考を言語化することである。国語を学習する目的は次の3点である。①読書を通して国語力をつけることにより教養を身につける。②国語力をつけることで、論理的な思考ができる。③論理の出発点となる仮説を選択する力である情緒を養う。」判断や決断は決して知識や論理ばかりでできるものではないことをそのときの我が身を重ね合わせて理解することになりました。決断したことを受け止める自分があり得るかどうかということであり、同時に、決断した結果と付いてくる責任に真正面から対峙する自分がすでにあるということです。教育は1年先や5年先、10年先だけでなく、少なくとも半世紀先のあるべき姿を念頭において絶えず質的な向上に務めなければならない営みです。長い旅であり、一日一日の積み重ねでもある。
2016/10/23
音楽運動療法 三度(みたび)
2016/10/21
ピアノの話
2016/10/16
朝日新聞の読書欄から思うこと
2016/10/15
詩を読む
2016/10/13
「HOPE 311 陽、また昇る」
2016/10/10
サンドイッチ考
2016/10/09
季節の変わり目に
2016/10/08
10月のポコ・ア・ポコ
10月のポコ・ア・ポコは4家族のみなさまにご参加いただきました。2年ぶり?いや、3年ぶりかもというお子さんや市のお祭りよりポコ・ア・ポコに行きたいとご参加いただいたお子さん、このときこそとフィナーレのシャボン玉に駆け寄ってそっと割ったお子さんも、そして、ポコ・ア・ポコのプログラムをひとつひとつ確かめるように集中してくれたお子さんも、自分なりの参加の姿を見せてくれました。これはすごく大切なことと思っています。フィナーレのシャボン玉が床に落ちる前に消えてしまっても、今日、このときだからこそと温かく見守ってくださるみなさまにただただ感謝でした。ポコ・ア・ポコは非日常であり、同時に日常なのです。そこに集う一人ひとりの姿が目に焼き付いています。11月以降は私のスケジュールが流動的なこともあって間際のお知らせになることもありますとお伝えしました。ここしばらく、なんとか乗り切りたいと思っています。
夕食の支度をしながら聞こえてきたこの音楽はもしやと思って字幕を見ていたらやはり吉俣良でした。NHKの「忠臣蔵の恋」の音楽です。
2016/10/06
質を高めるということ
2016/10/01
聞き書きワークショップ
『レディ・ムラサキのティーパーティー らせん訳「源氏物語」』
高橋亨の一連の著書と並んで今私が注目するコンテンポラリーの源氏物語論です。とんでもなく面白い。毬矢まりえ・森山恵の共著です。 毬矢まりえと森山恵はアーサー・ウェイリーが英訳した源氏物語を邦訳しています。ひょんなことからその「らせん訳」を読む前にこの『レディ・ムラサキ・・・』を読...
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第九の本番でした。合唱で参加しました。第九を歌うのは高校以来ということだけでなく歌うことすら音楽の授業で声を出すくらいだったので高い音は出ないしすぐ酸欠になってめまいがするしでエントリーしたことを後悔したこともありました。みなさんに助けてもらってやって来れたと思っています。 大阪...
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浅井幸子は1920年代の大正新教育の潮流のひとつで1924年に池袋で誕生した「児童の村」と名付けられた小学校をはじめとする私立学校での教員の「一人称の語り」に着目して『教師の語りと新教育 「児童の村」の1920年代』(東京大学出版会 2008)を書いています。そこで教師は教育実践...
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■元ディープ・パープルのギタリスト、リッチー・ブラックモアの新ユニットのアルバムを聴きました。Blackmore’s Nightの『Under A Violet Moon』です。「ロシア民謡から中世ルネッサンス風の音楽まで…」と帯にあるようにディープ・パープルとはかなり趣きが異な...