2024/02/27

ウクライナ国立バレエ

 一昨日の「情熱大陸」はウクライナ国立バレエの芸術監督、寺田宜弘氏の特集でした。ボリショイ、マリインスキーとともにかつてのロシアの3大バレエとされた伝統を汲む名門の芸術監督が日本人というのはどうしてだろうと思っていました。元ウクライナバレエのソロダンサーとして活躍していたということですがロシアの軍事侵攻後に芸術監督に就任して国外退避で減ったダンサーを集めるところから関わったとか。日本人というとよく気配りが云々されますが、この番組で見る彼の姿、身のこなし、声掛けからからはさもあらんと思いました。自宅で料理をするときの手際の良さはその仕事ぶりとつながっていると見ました。彼はウクライナ国立バレエの劇場に魅せられたとのことですが戦禍の中を戻ってそうしてバレエ団を立て直すのはよほどの思い入れがあってのことだろうと思います。そして、バレエはもちろんキーウの美しい街並みと相俟って文化の厚みを思いました。

そして、番組の後半から主役の女性ダンサーの話になってと観ていたら、そうか、この1月早々の日本公演に行きたいと思って昨年の秋にいろいろ算段したのはこのジゼルだったと思い出しました。プロモーターのウェブサイトで調べると1月6日のステージの主役、ミルクーハの名前が一本線の見え消しになってゴリッツァに変更になっていました。主役は誰であれこのジゼルを観に行けたかもしれなかったと思うと残念だし同時にウクライナバレエが身近に感じられました。来年1月にも日本公演が予定されているらしくてぜひ行きたいと思うのです。

2024/02/23

篠崎徳太郎著『宿題革命』、再び

 何度も読み返すのは子どもが亡くなったところです。(194-195p)

その後、ぼくの家庭には大きな変動があった。当時、四人(エミコ、ナオキ、ミホコ、マリコ)の子どもたちがいたが、いわゆるエキリ(腸炎)で二人(長男と三女)が一度にたおれてしまった。はじめマリコがたおれた。その翌々日ナオキがたおれた。
「たおれた」とはどういうことなのか。読み進むと子ども4人のうちの2人の死ということがわかります。一度にふたりも。それはどういうことなのか。エキリは腸炎とありますが今では聞かない病名です。エミコが池袋児童の村小学校の閉校までの3年間通っていた頃の出来事なので1935年代前後、昭和10年前後のことになります。

続いてこうあります。
ナオキはたおれる前日まで元気であった。そ の前日の様子をエミコの日記にはつぎのように書いている。
姉のエミコと手をつないで池袋児童の村小学校に手紙を届ける元気なナオキの姿があります。そして…
この翌日、ナオキは死んでいるのである。
その手紙はマリコが死んだことを学校に伝えるものだったことをうかがわせる記述があって、私はそう読みました。その手紙を届けたナオキが翌日に死んだというのか。胸が締めつけられる。そんなことがあってよいものなのか。

ナオキが死んでしまうと、いままで四人のきょうだいだったものが、二人になってしまった。さびしかった。子どもは死ぬものであるということを現に、 体験させられた。
昔は子どもはたくさん生まれるが少なくない子どもが子どものうちに死んだというよくある話なのか。そして筆者は続ける。
こういうことのためにも、子どもは将来のために現実をギセイにして過ごさせるようなことがあってはらない。もし、そうだとすると、親の身になってみれば、いくら泣いても泣ききれるものではない。また、いくら悔やんでも悔やみきれるものでもない。だから、子どもは自分の現実をせい一ばい生きぬいていけるように、育児も、教育も、すべての生活も、そう考えてやらなければ、ならないと思うのである。
そのとおりだと思う。将来のために、今はがまんして、いつか報われる…そればかりではない今がある。池袋児童の村小学校のすごさをあらためて思うのです。そして、当時、そこには、小林かねよの『児童の村小学校の思い出』にもあったように病気のために長期の欠席を余儀なくされているたくさんの子どもたちがいたことを忘れてはならない。

2024/02/20

篠崎徳太郎著『宿題革命』

 門脇厚司著『大正新教育が育てた力 「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』(岩波書店 2022)の第5章に元児童としてアンケートとインタビューが収録されている篠塚(宮下)恵美子の父の著書(本郷書房 1965)です。姓は「篠崎」か「篠塚」か。いろいろ検索すると篠崎のようでここでは篠崎徳太郎と表記します。

池袋児童の村小学校の児童の父として池袋児童の村小学校をともに生きたというべき生き証人の記述です。池袋児童の村小学校は1936年に閉校しているので29年後に書かれたことになります。文はひらがなが多くて書きぶりもやわらかい。ウィットに富んだ文章ですこぶる面白い。池袋児童の村小学校に通う娘のエミコの目を通した記述は今をもってしてもコンテンポラリー感があります。それだけに解散のときの重苦しさもストレートに伝わってきます。池袋児童の村小学校の教育を伝える記述にも目が留まります。

そもそも本の題名が『宿題革命』というのはどういうことか。宿題を切り口として教育を語るという筋書きになっています。

「第二部 エミコの場合」の「二 研究・実験・観察」から引きます。

・・・家庭へもちかえる学習が課題であるならば、教室の学習だって、やはり課題でなければならぬのではないか。
 しかも、この課題がいつでも外から与えられるものというだけであっては、子どもが発見した課題ということにならならないのではないか。教師から与える課題も、ぼくは全面的に否定しない。しかし、かりに教師から与えられる課題であっても、いわゆる線香花火的な、その場ですぐ答えの出るような課題では、子どもの計画性や、思考性というものを、全然無視したものである。やはり、ダルトン、プランのように、一ヵ月単位でしっかり計画をねって、それと取り組むというようなことが望ましいと思うのである。
 このようなことを研究というのではないだろうか。エミコは学校から帰ってくると、よく、
「おとうさん、研究するのよ。」
という言葉を使った。
(略)
ぼくはエミコから、この「研究」という言葉を習ったのである。これはいい言葉だと思う。
「ぼくはいま宿題をやってる。」
という言葉と、
「ぼくはいま研究している。」
という言葉と、どっちが人生の根本にふれた課題の意味をもっているであろうか。
 宿題否定論者たるぼくは、せめて「宿題」という言葉を、この地上から消したいと思う。そして、それにかわるものとして「研究」という言葉を使わせたいと思うのである。(126-128p)
観察や実験、作文など、池袋児童の村小学校について書かれた本を何冊か読んだわけですが、この本を読んだことで同校の子どもたちの姿を肌感覚で知ることになったと思っています。池袋児童の村小学校の教育は今流行りの「探求」の先取りとも言え、それは子どもたちの日々の生活のなかで、生活を輝かせる営みとして、知恵と情緒を育てるものであったのではないでしょうか。

2024/02/18

大河ドラマと「歴史的事実」

 録画してあったNHKの大河ドラマ「光君へ」の第6回、先週の「二人の才女」を観て締めくくりの漢詩の会とその場で道長が詠んだ漢詩、そして、まひろに歌を寄せるラストシーンに魅せられてしまいました。漢詩の会は政の術として催されたものですが、その密度と緊張感、そして、何よりも言葉が美しかった。台詞も意味深く、この漢詩の会がこうしたものと現わされるにはいかほどの教養が積まれたことかと思うとため息が出ました。和歌と漢詩という短詩形文学の面目躍如といったところでした。詳しくはこちらのサイトにまとめられていて私からあれこれ言うものではありませんが、こうしたドラマを観るとどうしても史実はどうだったのだろうと考えてしまいます。紫式部と清少納言が宮中で同時に勤めたのは1か月ほどでその間に顔を合わせたことはなかったという話を文学系の本で読んだことがあります。道長との歌のやりとりもどうだったのかと。でも、フィクションでいいではないか!というのが私の考え方です。学術研究でもあるまいしと。

かつて、やはりNHKの大河ドラマで「篤姫」がありました。吉俣良の音楽も好きで毎回楽しみに観ていました。そんなある日…(以下、2009年2月2日のブログより再掲)

音楽にもドラマにもすっかり魅了されてしまった「篤姫」です。ところが、『本』2009年2月号(講談社)に掲載の町田明広氏の「『篤姫』に描かれなかった幕末史」を読んでいて驚くというかおかしくなったことがあります。NHKの大河ドラマ「篤姫」の「功罪」についてのところです。

一方の『罪』は、そのストーリーによって『歴史的事実』が書き換えられてしまったことである。まさか、篤姫と小松が本当に幼馴染みであったと信じている読者はいないと考えたいが、そのほかにも困った点は数多く存在する。たとえば、小松帯刀を世に送り出してくれたことは、賞賛に値する大事件であったが、倒幕に反対する平和主義者という設定はいかがか。また、島津久光の扱いにも、個人的には不満が残る。登場シーンでは毎回のように力んでおり、保守的な側面ばかりが強調され、残念無念である。本当の久光は、古今稀に見る政治家であり、卓越した政略・眼識の持ち主である。久光なくしては、幕末史は回天せず、西郷・大久保も歴史に名を刻めていなかったはずなのだ。
私はその「まさか」で、篤姫と小松帯刀はほんとに幼馴染みだと信じていました。さすがに幕末に江戸城で碁を打つシーンはフィクションだと薄々感じていましたが、そうは思いながらも食い入るように見つめる自分がいて、それもいいではないかと思っていました。ところがである。篤姫と小松帯刀が幼馴染みということそのものがフィクションだというのです。これにはおかしくなりました。あそこまで真剣に観ていた自分は何だったのかと。でも、それでもなお、それでいいと思うのです。それくらい私にとっては感動するドラマと音楽でした。篤姫が自分で確かめないと気がすまない人として描かれていたところ、そして、篤姫は自分の思うことを信じるところにたいへん共感しました。逆に、ドラマの島津久光はいささか役不足で不自然に思っていたので町田氏の一文で納得しました。それにしても筆者の歴史学者、町田明広氏は小学生の頃にNHKの大河ドラマにのめり込んだことが後々大学で学び直すことにつながったとか。『本』に掲載のエッセイは実におもしろい。(再掲ここまで)

この話は後日談があります。その町田明弘氏本人から私の記事にコメントをいただいて著書ももよろしくとさりげなく添えてありました。これにも驚きました。

今年は紫式部が源氏物語が取り上げられたことで当時の和歌や漢詩など文学にまつわるエピソードが取り上げられることが楽しみです。

2024/02/17

斎藤環書評*中村佑子著『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』

 今朝の毎日新聞の「今週の本棚」は斎藤環評の中村佑子著『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』(医学書院 2023)でした。斎藤環の言葉は鋭く私に刺さりました。

自分で書いていて嫌になる。当事者の体験を語る語彙(ごい)が、精神医学には圧倒的に不足している。本書の言葉は、遥(はる)かに複雑で豊かな襞(ひだ)と陰影を帯びている。著者は自分の経験が言葉によって固定されることに抵抗する。意味の定まらない小文字の記憶が自分を支えていると感じつつ、ケアとはそうした不確実性の中に身を置くことだと主張する。だからこそ、ケアを必要とする家族の存在は、「傷であり、刃であり、深い穴である一方で、光であり、憧れであり、生きる意味」なのだ。
社会で広く使われている日常言語はマジョリティにデザインされていてマイノリティの状況等々の言語化には役立たないこと、そして、「小文字の記憶」とはラカンの「小文字の他者」に重ねたもので一人ひとりの語りと物語なくしては唯一無二の「その人」との距離を狭められないこと、ケアとはあらゆるアンビバレントを内包する営みであること、そうしてケアは為され、身体化されてゆくものであることを示唆している。

だが、私に刺さった理由はそれだけではありません。引用冒頭の「自分で書いていて嫌になる。当事者の経験を語る語彙が、精神医学には圧倒的に不足している。」の「精神医学」が「教育学」と置き換え得ると考える私には我が身への問いなのです。



2024/02/16

音楽を聴くということ

 先々週末の長野行の翌日は八ヶ岳高原に足を延ばしてもう1泊したところ、朝、目覚めたら窓の外は一面の雪景色でした。移動距離は800km余だったと思います。移動中、オデッセイでブラームスを聴き続けました。ピアノ協奏曲第1番と第2番はとりわけ繰り返し聴いて、あと、交響曲第4番、そして、弦楽六重奏曲第1番と第2番だったか。大学の頃によく聴いていた曲ばかりでしたが曲の展開は記憶が薄れていて、そうか、次はそうなるのかと新鮮でもありました。そうやってブラームスを聴いているうちに、音楽を聴くということはどういう営みなのだろうかと考えてしまいました。

先日、バッハを特集したNHK-TVの番組を観ていたところ、「マタイ受難曲」の初演は横やりが入って失敗に終わったが後年メンデルスゾーンによって再演されその素晴らしさが認められた旨のエピソードが紹介されていました。「マタイ受難曲」はそれまで聴かれることなく埋もれていたわけです。当時、音楽を聴くためにはその場その時の生演奏が必須であったわけで、家でもう1回、そして、繰り返して聴くということは不可能でした。音楽はジャンルを問わず何度も繰り返し聴くことによってその楽曲をより深く知ることができるところがあります。曲の展開がわかってくると期待しながら聴くことにつながります。とりわけクラシック音楽は曲の長さや複数の主題とその展開、転調などが複雑に組み合わさって聴くこと自体に謎解きのような要素があります。私はオデッセイを運転しながらそんな聴き方をしていました。バッハの頃とは音楽との付き合い方が大きくちがう音楽体験をしているのだと思います。記憶を辿りながらそうやって聴くブラームスは今の私にとって特別な音楽に思えます。尽きない引力です。

2024/02/02

野村芳兵衛と穴掘り、そして「生成としての教育」(矢野智司)へ

先日、何かを読んでいて、池袋児童の村小学校に勤務していた頃の野村芳兵衛のエピソードとして、彼がしばしば子どもたちに穴を掘らせていたというくだりがありました。その出典が紛れてしまってここに記せないのですがこのことを取り上げた論文があることがわかってきました。

豊田和子「幼小接続カリキュラムの視点から野村芳兵衛(1896~1982)を読み解く ─「遊び」と「学習」を中心に─ 」(名古屋芸術大学研究紀要第38巻 201~215頁(2017))より引用します。筆者は幼児教育の立場から取り上げるとしています。

①土いじりの指導
 運動場の片隅に子どもたちが「共同動作で」掘った穴(直径1間半、深さ1間)がある。子どもたちは、歌を歌い、破れたバケツに縄をつけて、その縄に多数の子どもがつかまって歩く。穴の中に二三人が入って、鍬で掘っては土をバケツに入れる。子どもたちは最初は戦争ごっこに使い、後には筵を敷いて中で遊んだり、おにごっこの時に使っている子どもたちは、富士山を中央に野尻湖などまで造るらしい。
直径1間半、深さ1間をメートル法に直すと、直径約2.7m、深さ約1.8mなので本格的というか子どもの遊びの域を超えたスケールだと思います。
 この遊びに対して野村は、「なんとも云えず、のどかである。学校生活も、半分はこののどけさがほしい」と感想を述べて、「指導上の注意」として、「1.味を発見せよ(生活観照)、2.けがをしないよう見守る(これが唯一の指導)、3.服装も軽快で、土がついても心配のないものに」という3点を挙げて、とりわけ、生活観照の観点から、「味」を発見することを促す。「味」とは、「黒土の感覚、身体の健康、共同動作の体得、動植物の観察、大地の神秘」を挙げて、ひたすら子どもの生活観照の立場を求める。
この論文の野村芳兵衛の見解「指導上の注意点」から筆者が「とりわけ」と取り上げている「生活観照」は穴掘りに夢中になった経験がある私にはすっと落ちるものです。私は小学生の頃に庭や畑によく穴を掘って瓦礫などを掘り出したので叱られたことがあります。山間部の小学校に勤務していたときは雑草を捨てるための穴を掘り始めたら止められなくなって首まで入る深さになったことがあります。なぜ穴掘りはそんなにも面白くて子どもを夢中にさせるのか。その理由はともかく、穴掘りを解釈する野村の言葉は「そういうことなのか」と思わせます。野村が指摘する「生活観照」の「味」の「黒土の感覚」と「大地の神秘」は身体感覚として共感します。身体感覚として、というのは文字通り身体を使った実感を通してであり、野村が示す「身体の健康」に当たります。野村は遊びを発達などの有用性の視点から捉えるのではなく生命性にふれる生成の営みとして見ているわけです。

このことについては矢野智司が著書『自己変容という物語 生成・贈与・教育』(金子書房 2000)で端的に述べています。そして、今回の長野県伊那市の小学校の公開研究会資料の紀要で信州大学の畔上一康が援用しています。矢野は同書の「「発達としての教育」と「生成としての教育」」のところでこうした「生成としての教育」は有用性を否定したもの、「発達としての教育」と相対するものとして論を進めています。その冒頭を引用します。
 「最初の否定」、つまり動物性を否定することによって人間化するプロセスへの企てを、「発達としての教育」と呼ぶことにしよう。それにたいして、「否定の否定」、つまり有用な生の在り方を否定して、至高性を回復する体験を、「生成としての教育」と名づけることにしよう。
畔上一康が矢野の「生成としての教育」の概念を援用したのはある意味学校教育の否定と捉えられます。「発達としての教育」と「生成としての教育」は、しかし、その相対する要素を子どもたちが受け入れることを強いられることで現状の学校教育が一見成り立っているように見えるのではないか。おとなたちはそのことに気づかずに「発達としての教育」に重きを置きがちであり、様々な教育問題につながっていると考えられます。こうした論の詳細はさておき、畔上が今回の紀要で矢野の「生成としての教育」を取り上げたことを評価したいと思います。その小学校の取組みはまさに「生成としての教育」であると見ているからです。(敬称略)

2024/02/01

子どもの一日は一編の詩である 今日一日が果たして詩たりえたか

明日は仕事の後長野に発って明後日の伊那市の小学校の公開研究会に出席の予定です。子ども一人ひとりの姿をつぶさに見てきたいと考えています。それは、言葉で表すのは難しいですが「身体像から子どもを感じる」と言えるでしょうか。その小学校の授業ではそれができるのではないかと考えています。前に訪れたとき、子どもたちは輪郭がしっかりした一人ひとりと見ました。指示や係の割り当てとして動くのではなく、みずからの求めでおのずから動く子どもの身体像はそこから立ち上がる世界を有しているのでないのかと考えます。自分がそれを感じることができるのか。

タイトルはその小学校の学校観です。

    子どもの一日は一編の詩である。今日一日が果たして詩たりえたか。

みずからの求めでおのずから動く子どもの身体像が有する世界とは「詩」ではないでしょうか。「詩」とは何かと問い続けながらですが。

一昨日、1月30日の朝日新聞の「折々のことば:2984 鷲田清一」では「詩的」という言葉が取り上げられました。「米国の都市学者は言う。古代に螺旋(ヘリックス)が機械に応用されてから千数百年、「詩的」ともいえる発想の大転換によって突如、ねじが出現した」ことをヴィトルト リプチンスキ著、春日井晶子訳『ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』から引き、鷲田清一は「社会にもきっと“行政の詩人”が必要だろう。」と締めくくっています。豊かで斬新、創造的な発想は「詩」を纏う時間を過ごすことで生まれるのではないでしょうか。(ちなみに“novel”は名詞では「小説」、形容詞では「斬新な」という意味があります。かつて、明治の頃は、小説を読むとろくな人間にならないと思われていたようです。)

子どもたち一人ひとりの姿に私が何を感じ、見ることができるのか。私が試されるのだと思います。心して訪問したいと思います。

『レディ・ムラサキのティーパーティー らせん訳「源氏物語」』

 高橋亨の一連の著書と並んで今私が注目するコンテンポラリーの源氏物語論です。とんでもなく面白い。毬矢まりえ・森山恵の共著です。 毬矢まりえと森山恵はアーサー・ウェイリーが英訳した源氏物語を邦訳しています。ひょんなことからその「らせん訳」を読む前にこの『レディ・ムラサキ・・・』を読...