2024/01/28

教師と「小さな物語」

浅井幸子は1920年代の大正新教育の潮流のひとつで1924年に池袋で誕生した「児童の村」と名付けられた小学校をはじめとする私立学校での教員の「一人称の語り」に着目して『教師の語りと新教育 「児童の村」の1920年代』(東京大学出版会 2008)を書いています。そこで教師は教育実践を一人称で記録し、子どもたちは固有名で登場します。同書の「序文」で佐藤学は次のように記しています。

本書が示唆する歴史的教訓も重要である。教師が「私」の」言葉を失い、固有名の子どもの語りを失うとき、国家やメディアが流布する虚妄と虚偽の言葉が教師の思想と実践に浸透し、教育外の権威や権力によって教師も子どもも翻弄されることになる。本書は、この事態がファシズム教育によっていかに進行したかも仔細に描き出している。教師が教室を舞台として演じ語り記している「小さな物語」は、教師である「私」が教師であり続けるための存在証明であり、子どもと共に創出する教育経験の自己証明である。教育改革の嵐の中で混迷の中に投げ込まれている今日の教師にとって本書の示唆するところの意義は大きい。(序文」Pⅱ 下線飯田)

昨年8月、勤務先の大学の教職支援センター教師教育研究プロジェクト第1回夏のセミナーで講師の佐藤学から「自律性」のところでこんな話がありました。「この頃授業研究に行っても面白くないという話をよく聞く。学習指導要領の言葉しか聞けない。教師が自分の言葉で語ることが大事。自分の言葉で語れること大事」

夜の「語る会」で言葉を交わす機会があったとき、「僕はいつも『小さな物語を大切に』と言っている。『あっ、あの子が笑った』そんなことで教師は支えられている」と話がありました。その日の講演は学校・学校教育のシステムについてでしたが、彼の考え方の核心にはそうした身体化した言葉にあるのではないかと、他の著作からもそう考えています。

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