先週から今週にかけて、伊藤遊著『鬼の橋』(福音館書店 1997)とオトフリート=プロイスラー著・中村浩三訳(偕成社 1980)『クラバート』を読了しました。どちらもこんなに面白い物語があったのかと溜息が出てしばし読み終わるのがもったいないと本を閉じながらの読書でした。物語に文字通り没頭するのは久しぶりでした。そして、そうして時が過ぎゆく感覚は不思議なものでした。
『鬼の橋』の主人公である小野篁は前々から気になっていた人物でどんな歌を詠んだのかと調べたことがあり、また、縁の六道珍皇寺はいつか訪れたいと思っていました。昼間は公務員、夜は閻魔大王の補佐役として政(まつりごと)の表と裏で闊歩する構図はすこぶる面白い。そうした発想はどのような背景があって生まれたのだろうか。いくつかの物語にも描かれ、現代においては伊藤遊が今を生きる存在として息を吹き込んだといえるでしょう。読んでいてこの物語が平安の過去のものとは思えない共通項が感じられます。鬼を介在させることによって摩訶不思議な物語が読む人をしてかくも容易くまことしやかな物語として読ましむるのだろうか。人というか人間はうちに鬼が住まうものなのだろうかと考えさせられる。そして、とにかく「うまい!」と唸ってしまいました。
『クラバート』は魔法文学とでもいうのだろうか。不思議な力をもつ魔法は幾千幾万もの物語に描かれてきました。その習得の過程は魔法文学のひとつの形です。『クラバート』はその典型といえるでしょうか。魔法の勉強は難しい。魔法は何でもできるはずなのに苦労を重ねて勉強をします。物語は中世と思しきドイツの水車屋が舞台となって展開します。親方に抗えない12人の弟子が毎年一人ずつ生贄となることがわかっている中で修業と粉ひきの仕事をします。弟子同士の疑心暗鬼にクラバートは揺れ動きますが、自分を愛する娘によって救い出される最終場面では愛するクラバートの不安の察知という魔法でも何でもない真っすぐな人の心の働きが描かれます。濃い読了感がありました。
鬼と魔法という人知が及ばないものに人はなぜ惹かれてたくさんの物語や昔話が伝わり今もこうして書かれるのか。キリスト教における魔女も然り。悪さをしない妖精も人知が及ばないということでは通じるものがある。こうした人知が及ばないものたちをつくりだすことで人は不安を乗り越えたりやり過ごそうとするのはないか。その説になるほどと思っています。
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