11月の日曜日のポコ・ア・ポコは12家族のみなさまに来ていただきました。今日は出足が早くて始まる15分くらい前から広い会場はまるで保育所のようでした。思い余って泣き出す子もいて、いつもとちょっとちがうなと思っていました。セッションも時折そんな場面があって、そうそうと思い出したことがありました。それは小学校の教室の毎日そっくりです。仲良しでも互いの思いがぶつかって、許せないことがあって、時にけんかもしながら成長していくのが子どもです。帰り、車の中で気づいたことがありました。特別支援学校に勤務するようになって知った小学校とのちがいのひとつです。障がいのある子どもたちは指示が通りにくいことから、そのこと、指示が通ることが指導の目標になりがちです。安全上からの必要もありますが、指示が通るという考え方は、子どもはおとなのいうことをよく聞き、思うようになるのがよいとされる方向に流れがちです。でも、実際はちがう。障がいのあるなしにかかわらず子どもはおとなの思うようにならないものです。指導は大事で必要ですが、最終的に自己を育てるのは子ども自身です。昨日の記事にある日本評論社の「こころの科学セレクション」のシリーズで、中根晃編集『自閉症』(1999)に小林重雄氏がこう書いています。「自閉症児が親の指示にも従わず勝手にとびまわる多動の時代をすぎて、指示にもよく従う状態に達すると、担当教員も親も一安心するものである。そのまま自発的行動がまったく消失してしまう状態に進んでしまうことをロボット化と言う。ロボット化は社会的自立を目標にする限り、教育の失敗と言える。しかし、重度の例では施設などで継続的に密度の高いケアが可能であれば、むしろ安全性が高いとも考えられる。しかし、これはインクルージョンの考え方と逆行するものである(小林、1999)。」この部分は初めて読んだときからずっと“ブックマーク”していたところです。障害のあるなしにかかわらず、子どもが育ち成長するということ、おとなになるということは、自己調整ができるようになるということともいえる。この考え方なくしては子どもは育たないと私は思う。過日の全国病弱虚弱教育研究連盟研究協議会(三重大会)で私が参加したオプションセミナーの内容はまさにこの視点がテーマでした。赤ちゃんとお母さんとのやりとりの実験のビデオの中で、お母さんがまったく反応しない場面では赤ちゃんが自分から視線をお母さんからはずして自分の手を見ることがあって、それは「情動調節行為」とのことでした。こうした経験が自己を育てることにつながり、また、一線を越すことで疾患にもつながると考えられます。子どもは決して右肩上がりばかりで育つものではない。ところが、障がいがある子どもの教育ではこの視点が忘れられがちになってしまうことがあるように思います。指示が通ることがゴールのすべてにされがちではないでしょうか。子どもは思うように育たないが子どもは環境に育てられるものと思います。大切なのは子どもの自己調整力を育てる視点です。自己調整力の獲得はポコ・ア・ポコのセッションが目指しているゴールのひとつです。おとながゆとりをもって子どもたちを見つめる空間であってほしいと思っています。
2010/11/21
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