今朝の毎日新聞の「今週の本棚」は斎藤環評の中村佑子著『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』(医学書院 2023)でした。斎藤環の言葉は鋭く私に刺さりました。
自分で書いていて嫌になる。当事者の体験を語る語彙(ごい)が、精神医学には圧倒的に不足している。本書の言葉は、遥(はる)かに複雑で豊かな襞(ひだ)と陰影を帯びている。著者は自分の経験が言葉によって固定されることに抵抗する。意味の定まらない小文字の記憶が自分を支えていると感じつつ、ケアとはそうした不確実性の中に身を置くことだと主張する。だからこそ、ケアを必要とする家族の存在は、「傷であり、刃であり、深い穴である一方で、光であり、憧れであり、生きる意味」なのだ。社会で広く使われている日常言語はマジョリティにデザインされていてマイノリティの状況等々の言語化には役立たないこと、そして、「小文字の記憶」とはラカンの「小文字の他者」に重ねたもので一人ひとりの語りと物語なくしては唯一無二の「その人」との距離を狭められないこと、ケアとはあらゆるアンビバレントを内包する営みであること、そうしてケアは為され、身体化されてゆくものであることを示唆している。
だが、私に刺さった理由はそれだけではありません。引用冒頭の「自分で書いていて嫌になる。当事者の経験を語る語彙が、精神医学には圧倒的に不足している。」の「精神医学」が「教育学」と置き換え得ると考える私には我が身への問いなのです。
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