門脇厚司著『大正新教育が育てた力 「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』(岩波書店
2022)の第5章に元児童としてアンケートとインタビューが収録されている篠塚(宮下)恵美子の父の著書(本郷書房
1965)です。姓は「篠崎」か「篠塚」か。いろいろ検索すると篠崎のようでここでは篠崎徳太郎と表記します。
池袋児童の村小学校の児童の父として池袋児童の村小学校をともに生きたというべき生き証人の記述です。池袋児童の村小学校は1936年に閉校しているので29年後に書かれたことになります。文はひらがなが多くて書きぶりもやわらかい。ウィットに富んだ文章ですこぶる面白い。池袋児童の村小学校に通う娘のエミコの目を通した記述は今をもってしてもコンテンポラリー感があります。それだけに解散のときの重苦しさもストレートに伝わってきます。池袋児童の村小学校の教育を伝える記述にも目が留まります。
そもそも本の題名が『宿題革命』というのはどういうことか。宿題を切り口として教育を語るという筋書きになっています。
「第二部 エミコの場合」の「二 研究・実験・観察」から引きます。
・・・家庭へもちかえる学習が課題であるならば、教室の学習だって、やはり課題でなければならぬのではないか。観察や実験、作文など、池袋児童の村小学校について書かれた本を何冊か読んだわけですが、この本を読んだことで同校の子どもたちの姿を肌感覚で知ることになったと思っています。池袋児童の村小学校の教育は今流行りの「探求」の先取りとも言え、それは子どもたちの日々の生活のなかで、生活を輝かせる営みとして、知恵と情緒を育てるものであったのではないでしょうか。
しかも、この課題がいつでも外から与えられるものというだけであっては、子どもが発見した課題ということにならならないのではないか。教師から与える課題も、ぼくは全面的に否定しない。しかし、かりに教師から与えられる課題であっても、いわゆる線香花火的な、その場ですぐ答えの出るような課題では、子どもの計画性や、思考性というものを、全然無視したものである。やはり、ダルトン、プランのように、一ヵ月単位でしっかり計画をねって、それと取り組むというようなことが望ましいと思うのである。
このようなことを研究というのではないだろうか。エミコは学校から帰ってくると、よく、
「おとうさん、研究するのよ。」
という言葉を使った。
(略)
ぼくはエミコから、この「研究」という言葉を習ったのである。これはいい言葉だと思う。
「ぼくはいま宿題をやってる。」
という言葉と、
「ぼくはいま研究している。」
という言葉と、どっちが人生の根本にふれた課題の意味をもっているであろうか。
宿題否定論者たるぼくは、せめて「宿題」という言葉を、この地上から消したいと思う。そして、それにかわるものとして「研究」という言葉を使わせたいと思うのである。(126-128p)
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