2025/02/21

池袋児童の村小学校と野口雨情

私設人文系図書館ルチャ・リブロの司書の青木海青子さんの講演「生きるためのファンタジー」を聴いて紹介された本を読み、そして、勤務校の子どもたちにあらためて目をやると、子どもはrealityとactualityのふたつの世界の行き来を瞬時に繰り返しながら今を生きているのだと思いました。いろんなことが想起されます。そのひとつが池袋児童の村小学校の野口雨情のエピソードです。

野口雨情は「シャボン玉」など童謡の作詞家であることは知っていましたが、池袋児童の村小学校の元児童らの話をまとめた資料に目を引くエピソードがあって少しずつ調べています。そのきっかけとなったのは中野光・高野源治・川口幸宏『児童の村小学校』(黎明書房 1987)の次の部分です。

児童の村小学校物語――その二
大正十五年頃、初期の児童の村は、とても有名な存在で、よくいろんなお客様が見えました。その中で強く記憶に残されているのが、野口雨情氏です。野口雨情氏は当時子供でも知らない者はない位、有名な童謡作家でし た。“からす何故なくの、からすは山に、可愛いい七つの子があるからよ・・・”という歌は、学校中どこかでいつ も聞こえていました。ですから、この野口雨情氏に僕たち生徒が、非常な興味をもったのは当然でしょう。当時の雨情氏は、おそらく四十歳前後ではなかったかと思われます。黒い詰襟の洋服、頭は角刈のようで分けてはい なかったようです。あまり大柄ではなく色の白い、細面の少し長目の顔でした。一見村夫子然とした、そして隠やかな話し方をされました。この雨情氏のお話が、僕には今日まで忘れ難い印象を残しているのです。
<雨情氏のお話>
 雨情氏は、八畳二間の講堂で、全校生徒五、六十人を前に、三、四十分は話されたと思います。ですが、僕の記憶に鮮かに残されているのは、ただ一つのことです。雨情氏は頗る真面目に話されました。
 ーー皆さん、皆さんは、あんぱんがお好きですか。それともチョコレートがお好きですか。チョコレートの方がお好きでしょう。童話は、あんぱんであります。童謡は、チョコレートであります。童謡がどんなによいものであるか、皆さんからよく世間の人に話して下さい。・・・ ーー
 大体こんな主旨の話でした。その時、最上級生だった僕は、なんて理屈に合わない話だろう、と思いました。ですが、この理屈に合わない話を、一生懸命に真面目に話される雨情氏を、不思議な存在だと思いました。そうして、自分では本当にそうだと思っているのかなあ、と思うと、僕は雨情氏の人柄一人格に、ふれたような気持ちになりました。そしてそれは、五十年後の今日でも変わらないのです。
<雨情氏の詩と童謡 >
 雨情氏の詩と童謡は、およそ理屈に合わないというところに、その基調があるようです。
 大正末期、文部省あたりから非難の声も出たとかいう、あの“枯れすすき”の歌も、理屈もへちまもないひどいものです。ですがあの詩が、今日まで日本人の叙情の根底に流れていることは否定できないでしょう。 雨情氏の詩は、常に農村的です。日本の“村”の詩です。 
 “葱をすてれば しほれ枯れる 葱も捨てれば しほれて枯れる お天とう様見て俺りゃ立いた”
 どこにも理屈はないのですが、農村青年の叙情があふれています。また、浪漫的な詩もありますが、これもあくまで農村的です。
 “あの山越えて岡越えて、俺と一緒にゆかないか。連れて行くなら行きましょが、鬼が出るなら俺ら嫌だ。”

 実にユーモラスな相聞歌です。かような詩を、雨情氏は、氏独得の節をつけて声高らかにうたいました。僕もこれは児童の村時代に聴いたことがあります。それは何とも言えない、情調と風情にあふれた絶唱と言ってよ かったと思います。昨年十一月の児童の村五十周年の席上で、音楽の先生でいらっしゃった小出浩先生が、雨情さんの歌は、作曲の専門家が楽譜に写そうとすると、いつも節が違っている。それでどうしても雨情節の写譜ができなかった、と言われました。また、"からすの子”の童謡も、"可愛いい七つの子”というのが、七歳の子というのか、七匹の子というのか、今日まで判然としてはいないのだ、と話されました。この徹底的に無理屈なところに、野口雨情の“人と芸術”の真諦があるのではないでしょうか。そして、そういう世界が理屈なしに我々の心に残されている、ここに“児童の村”があったのだと、今日でも僕は思っているのです。(久布白三郎_評論家)

野口雨情の歌を聴いて幼い頃を過ごすのは今も同じだと思います。「七つの子」の謎は解けることなく謎のまま人生を送ります。「船頭小唄」はその情景を見たことがなくても日本語の歌詞の中から見えるように感じることがあるのではないでしょうか。realityではなくacutualityの最たるものだと思います。「七つの子」の謎が謎のままでいてその謎に思いを馳せる心もちが日常や人生を豊かにするのではないだろうか。このような謎を子どものときにたくさん経験することは謎を謎として温める心のゆとりとなることでしょう。


2025/02/14

『鬼の橋』『クラバート』読了

 先週から今週にかけて、伊藤遊著『鬼の橋』(福音館書店 1997)とオトフリート=プロイスラー著・中村浩三訳(偕成社 1980)『クラバート』を読了しました。どちらもこんなに面白い物語があったのかと溜息が出てしばし読み終わるのがもったいないと本を閉じながらの読書でした。物語に文字通り没頭するのは久しぶりでした。そして、そうして時が過ぎゆく感覚は不思議なものでした。

『鬼の橋』の主人公である小野篁は前々から気になっていた人物でどんな歌を詠んだのかと調べたことがあり、また、縁の六道珍皇寺はいつか訪れたいと思っていました。昼間は公務員、夜は閻魔大王の補佐役として政(まつりごと)の表と裏で闊歩する構図はすこぶる面白い。そうした発想はどのような背景があって生まれたのだろうか。いくつかの物語にも描かれ、現代においては伊藤遊が今を生きる存在として息を吹き込んだといえるでしょう。読んでいてこの物語が平安の過去のものとは思えない共通項が感じられます。鬼を介在させることによって摩訶不思議な物語が読む人をしてかくも容易くまことしやかな物語として読ましむるのだろうか。人というか人間はうちに鬼が住まうものなのだろうかと考えさせられる。そして、とにかく「うまい!」と唸ってしまいました。

『クラバート』は魔法文学とでもいうのだろうか。不思議な力をもつ魔法は幾千幾万もの物語に描かれてきました。その習得の過程は魔法文学のひとつの形です。『クラバート』はその典型といえるでしょうか。魔法の勉強は難しい。魔法は何でもできるはずなのに苦労を重ねて勉強をします。物語は中世と思しきドイツの水車屋が舞台となって展開します。親方に抗えない12人の弟子が毎年一人ずつ生贄となることがわかっている中で修業と粉ひきの仕事をします。弟子同士の疑心暗鬼にクラバートは揺れ動きますが、自分を愛する娘によって救い出される最終場面では愛するクラバートの不安の察知という魔法でも何でもない真っすぐな人の心の働きが描かれます。濃い読了感がありました。

鬼と魔法という人知が及ばないものに人はなぜ惹かれてたくさんの物語や昔話が伝わり今もこうして書かれるのか。キリスト教における魔女も然り。悪さをしない妖精も人知が及ばないということでは通じるものがある。こうした人知が及ばないものたちをつくりだすことで人は不安を乗り越えたりやり過ごそうとするのはないか。その説になるほどと思っています。

2025/02/11

メガネの憂鬱、再び

 「生きるためのファンタジー」で紹介のあった物語4冊の3冊目を読んでいます。面白くてたまらいのでちょっとした隙間時間も読めるようにカバーを付けて持ち歩いています。キャサリン・ストー著、猪熊葉子訳『マリアンヌの夢』は子ども向けなので少し大きいといってもやっぱり文庫版なので字が小さくて老眼鏡も持ち歩いて読みました。しかし、どこか違和感があって行きつけのメガネ店でデスクワーク用のメガネを新しく作ることにしました。老眼の単焦点のメガネを作るのは初めてだったので調べてもらったところ市販の+1では度が強過ぎることがわかりました。ふだんかけている遠近両用のメガネの手元用レンズは+0.75でした。市販では見かけたことがないと思っていましたがあることはあるようです。ただ、そこまで考えることはなくやっぱり専門店で相談してよかったと思いました。新しい+0.75の単焦点のメガネはノートパソコンから手元の小さな文字までくっきりと見えて長時間使っても疲れません。

今回新調したフレームは薄い飴色のセルの丸っこいデザインで他のメガネとは全く異なるイメージです。普段使いのフレームはやや尖った印象があります。デスクワークのみと割り切ると余分な力が抜けたのか、一言でいうと目立たないデザインを選んだということだろうか。メガネひとつで気分も変わるので面白くて不思議です。

2025/02/08

『マリアンヌの夢』の草

キャサリン・ストー作、猪熊葉子訳です。先週、四条畷市立田原図書館で開催されたルチャ・リブロの司書、青木海青子さんの講演会で紹介された本です。この日の演題は「生きるためのファンタジー」で、『マリアンヌの夢』もファンタジーに分類されるようです。

講演会で紹介されたファンタジーは4冊あってそのどれもに惹かれて全部を取り寄せました。最初に読もうと思ったのは『マリアンヌの夢』でした。主人公のマリアンヌもマークも病気で、「子どもの成長にとって病はどんな意味があるのか」について考えさせられる作品だという青木さんの一言がその理由です。ファンタジーといわれる文学作品を読むのはもしや何十年ぶりかもしれず、ぐいぐいと作品の世界に惹きこまれてしまいました。読み終わったら自分でも不思議なくらいどっぷりと惹きこまれてしまってどう感想を言語化すればよいのかわからない状態になってしまいました。この本の主題は子どもの成長にとって病気とそれに起因する不安はどういうものかという点にあると思うのですが、今日は他の一点、草、草原についてのみ書きたいと思います。

池袋児童の村小学校について調べていたとき、校舎も校地もあまりに狭くて子どもたちは隣地の原っぱで自然観察をしたり遊んだりしたという記述が元児童らの証言で私の目を引きました。放課後もそこで遊ぶことが多かったとも。野村芳兵衛が子どもたちに穴を掘らせたのもそこだったのかと思いましたが、原っぱや草、草原という言葉は勤務校の草だらけの運動場を駆け回って遊ぶ子どもたちの姿と見事というくらい重なって私の研究の重要なキーワードのひとつとなりました。そして、『マリアンヌの夢』も草や草原が度々登場して物語を構成する大事なキーワードとなっているように思います。

お母さんのマホガニーの裁縫箱で見つけた1本の鉛筆で画帳に描いた家の周りにマリアンヌは草を描きこみます。彼女は慎重に描きこみます。

 マリアンヌは家のまわりに柵をかき、門から玄関まで小道をつけた。柵の内側には花を咲かせ、家の外側には一面に丈の高い草をかいた。すくなくともその草の丈が腰のあたりまであればいいと、マリアンヌは思った。柵の外の草原には、ごろんとしたおおきな石をいくつかかいた。それはコンウォール地方の荒野(ムーア)でよく見かけるような大石だった。

草とその大石は物語の最後まで重要な役割を担います。草は大石から逃げるマリアンヌとマークの脚を刺して傷つけたり伏せるふたりを追っ手から隠したりします。途中を全部端折って物語は次の3行で終わります。

 すべてが、ゆっくりと休み、満足し、待っているように思われた。マークはやって来る。マークはマリアンヌを海に連れていくだろう。マリアンヌは、いい香りのする、短い草の上に横になった。マリアンヌも待った。

私はイギリスを訪れたことはありませんが、ヒースに覆われたムーアとよばれる荒野は私にとってイギリス文学の原風景といっても過言ではなく、やはりコンウォール地方が舞台の『マリアンヌの夢』で草や草原が幾度も描かれていることにこの作品の奥深さを思うのです。もちろん、この作品の大きな読了感は草だけのものではありませんが今日は草に焦点を当ててみました。

文学と草といえば、アラン・コルバン著、小倉孝誠・綾部麻美訳『草のみずみずしさ 感情と自然の文化史』(藤原書店 2021)にふれないわけにはいきませんが今日はここまでとします。

下鴨納涼古本まつり

  京都下鴨神社薫の糺の森が会場の下鴨納涼古本まつりに行ってきました。古本まつりなるものに行ったのは初めてで、しかも神社の境内なので見るものすべてが新鮮でとても面白かったです。この古本まつりを知ったのは県内の古書店のインスタグラムです。時間ができたので思い立って行った次第です。小...