キャサリン・ストー作、猪熊葉子訳です。先週、四条畷市立田原図書館で開催されたルチャ・リブロの司書、青木海青子さんの講演会で紹介された本です。この日の演題は「生きるためのファンタジー」で、『マリアンヌの夢』もファンタジーに分類されるようです。
講演会で紹介されたファンタジーは4冊あってそのどれもに惹かれて全部を取り寄せました。最初に読もうと思ったのは『マリアンヌの夢』でした。主人公のマリアンヌもマークも病気で、「子どもの成長にとって病はどんな意味があるのか」について考えさせられる作品だという青木さんの一言がその理由です。ファンタジーといわれる文学作品を読むのはもしや何十年ぶりかもしれず、ぐいぐいと作品の世界に惹きこまれてしまいました。読み終わったら自分でも不思議なくらいどっぷりと惹きこまれてしまってどう感想を言語化すればよいのかわからない状態になってしまいました。この本の主題は子どもの成長にとって病気とそれに起因する不安はどういうものかという点にあると思うのですが、今日は他の一点、草、草原についてのみ書きたいと思います。
池袋児童の村小学校について調べていたとき、校舎も校地もあまりに狭くて子どもたちは隣地の原っぱで自然観察をしたり遊んだりしたという記述が元児童らの証言で私の目を引きました。放課後もそこで遊ぶことが多かったとも。野村芳兵衛が子どもたちに穴を掘らせたのもそこだったのかと思いましたが、原っぱや草、草原という言葉は勤務校の草だらけの運動場を駆け回って遊ぶ子どもたちの姿と見事というくらい重なって私の研究の重要なキーワードのひとつとなりました。そして、『マリアンヌの夢』も草や草原が度々登場して物語を構成する大事なキーワードとなっているように思います。
お母さんのマホガニーの裁縫箱で見つけた1本の鉛筆で画帳に描いた家の周りにマリアンヌは草を描きこみます。彼女は慎重に描きこみます。
マリアンヌは家のまわりに柵をかき、門から玄関まで小道をつけた。柵の内側には花を咲かせ、家の外側には一面に丈の高い草をかいた。すくなくともその草の丈が腰のあたりまであればいいと、マリアンヌは思った。柵の外の草原には、ごろんとしたおおきな石をいくつかかいた。それはコンウォール地方の荒野(ムーア)でよく見かけるような大石だった。
草とその大石は物語の最後まで重要な役割を担います。草は大石から逃げるマリアンヌとマークの脚を刺して傷つけたり伏せるふたりを追っ手から隠したりします。途中を全部端折って物語は次の3行で終わります。
すべてが、ゆっくりと休み、満足し、待っているように思われた。マークはやって来る。マークはマリアンヌを海に連れていくだろう。マリアンヌは、いい香りのする、短い草の上に横になった。マリアンヌも待った。
私はイギリスを訪れたことはありませんが、ヒースに覆われたムーアとよばれる荒野は私にとってイギリス文学の原風景といっても過言ではなく、やはりコンウォール地方が舞台の『マリアンヌの夢』で草や草原が幾度も描かれていることにこの作品の奥深さを思うのです。もちろん、この作品の大きな読了感は草だけのものではありませんが今日は草に焦点を当ててみました。
文学と草といえば、アラン・コルバン著、小倉孝誠・綾部麻美訳『草のみずみずしさ 感情と自然の文化史』(藤原書店 2021)にふれないわけにはいきませんが今日はここまでとします。
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