2026/01/18

藤田美実 「内なる世界」と「外なる世界」 再び

私が藤田美実の著書を初めて手にしたのは『信州教育の系譜 上・下』(北樹出版 1989)でした。広く信州の教育について資料を集めていた中にありました。あるとき読み始めると惹きこまれてしまい何度も繰り返し読んで今日に至っています。『明治的人間像 木下尚江・赤羽巌穴・手塚縫蔵』(筑摩書房 1968/S43)も然りでした。とりわけ手塚縫蔵について書かれたところが私の心を捉えて離しませんでした。手塚縫蔵の章末はにわかに哲学書然とした筆致になります。先日、このことについて著者が触れている文章を読んでその真意を知ることになりました。その『信濃教育』第1020号 特集 手塚縫蔵先生 昭和44年11月号から引用します。

手塚縫蔵逝いてこの八月で満十七年、一つの精神共同体である信濃教育会にとって、彼の名はすでに古典である。古典は批判を許さない。彼における「外なる世界」を云々し、これをあげつらうのは無意味である。今日の教育者たるものは、彼における「存在」の語の真諦を味得すれば足りる。(はたして人はそれを味得しているだろうか。私は「存在」の一語を中心概念として『明治的人間像』一巻を書いたつもりだが、朝日新聞や読書新聞の書評も、信毎や『信濃教育』のそれも、その核心には一言もふれていない。批評家なんてのんきなものだとつくづく思う。)しかもなお私が彼における「外なる世界」を云々するのは、一つには信濃教育会がこのような古典的リベラリズムに安住しているのではないかという危惧(祀憂であれば幸いである)を感ずるからでもあるが、一つには「内なる世界」と「外なる世界」とがどうしても総合されないという、まさに日本的なこの現象をつきつめて考え、この矛盾をトコトンまで苦しまなければ日本は近代化されないと思うからであり、そこに木下尚江や山本飼山を回想することの意味もある。そしてまた私は田中正造の名前を回想している。今春私は栃木県佐野の近傍に彼の生家や終焉の地をたずね、そこの農民たちと語る機会を得たが、彼らがいまなお敬慕の情をこめて田中正造の名を口にするのを聞くとき、強く心打たれる思いがした。田中正造は内において深い罪の自覚と人間愛にささえられながら、死の床につく最後の日まで農民たちのために戦うことをやめなかった。彼においては「内なる世界」と「外なる世界」とが、なんの矛盾もなく、まことに奇妙に調和している、その稀有な人間性の不可思議さを私は言いたいのである。(『信濃教育』第1020号 特集 手塚縫蔵先生 昭和44年11月号)

私も『明治的人間像』を読んで「存在」という言葉に込められた著者の真意を十分に読み取ることはできませんでした。ただ、読み進めるなかで手塚縫蔵の章の記述のもどかしさのようなものは何なのだろうと訝しく思いました。その核心が「存在」にかかる著者の思索であったことがわかりました。

<補足>

藤田美実は19歳で大学の哲学科に入学しましたが「1年で大学がいやになり、翌年休学して信州の田舎の小学校の代用教員になりましたが、その校長が手塚縫蔵というドエライ人間で、彼から圧倒的な影響を受けました」と晩年のエッセイ『余滴』(私家版1992)に書いています。昭和35年(1935年)、片丘小学校でのことと思われます。以下、同書からの引用です。

 人間存在、即ち「私がある」、きわめて簡単な言葉ですが、実はそれは至難の業なのです。わが身に鞭うつような、きびしい罪の自覚(自己否定)がなければ人間は存在し得ません。

 私が学生時代に信州の小学校の代用教員をやり、校長の手塚縫蔵に会った話は既に致しました。私は彼において存在する人間の荘厳ともいうべき姿をかいま見たのでした。彼の日記には素晴しい言葉がたくさんありますが、特に「淡如として事なし 事なきは事ある也 存在は大事業なり 懼れ慎しむべし」*という言葉は私の最も好きな言葉です。

*(「日誌」昭八・九・一九)存在するということは生涯をかけての大事業である。手塚の「存在」は、不作意にみえて作意、自然にみえて必死の精進努力の結果であった。

(藤田美実「手塚縫蔵に関する断章―キリスト教の日本的受容―」(『明治大学教養論集』20110118))


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