2024/02/01

子どもの一日は一編の詩である 今日一日が果たして詩たりえたか

明日は仕事の後長野に発って明後日の伊那市の小学校の公開研究会に出席の予定です。子ども一人ひとりの姿をつぶさに見てきたいと考えています。それは、言葉で表すのは難しいですが「身体像から子どもを感じる」と言えるでしょうか。その小学校の授業ではそれができるのではないかと考えています。前に訪れたとき、子どもたちは輪郭がしっかりした一人ひとりと見ました。指示や係の割り当てとして動くのではなく、みずからの求めでおのずから動く子どもの身体像はそこから立ち上がる世界を有しているのでないのかと考えます。自分がそれを感じることができるのか。

タイトルはその小学校の学校観です。

    子どもの一日は一編の詩である。今日一日が果たして詩たりえたか。

みずからの求めでおのずから動く子どもの身体像が有する世界とは「詩」ではないでしょうか。「詩」とは何かと問い続けながらですが。

一昨日、1月30日の朝日新聞の「折々のことば:2984 鷲田清一」では「詩的」という言葉が取り上げられました。「米国の都市学者は言う。古代に螺旋(ヘリックス)が機械に応用されてから千数百年、「詩的」ともいえる発想の大転換によって突如、ねじが出現した」ことをヴィトルト リプチンスキ著、春日井晶子訳『ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』から引き、鷲田清一は「社会にもきっと“行政の詩人”が必要だろう。」と締めくくっています。豊かで斬新、創造的な発想は「詩」を纏う時間を過ごすことで生まれるのではないでしょうか。(ちなみに“novel”は名詞では「小説」、形容詞では「斬新な」という意味があります。かつて、明治の頃は、小説を読むとろくな人間にならないと思われていたようです。)

子どもたち一人ひとりの姿に私が何を感じ、見ることができるのか。私が試されるのだと思います。心して訪問したいと思います。

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