2022/06/10

雨上がりのブランコと子どもたち

この4月から大学教員となって附属学校園の支援室に勤務しています。私の部屋は附属小学校と運動場に間にあって子どもたちに囲まれながらの毎日です。臨床哲学者の鷲田清一氏は大阪大学総長だったとき総長室の真下に保育園を設置したと氏の講演で聞きました。大学は子どもたちの声が響いていることが大切だとも。平成20年、小児がん支援の団体が主催する講演会でした。それから14年、時々思い出していた鷲田氏の言葉の真意を身をもって知るところとなっています。

今月はじめの雨上がりの日、附属小学校の運動場はまだ乾いてなくてやわらかく、ブランコの下の掘れたところは泥水が溜まっていました。20分休みに運動場に出た子どもはまばらでした。3年生くらいの男の子がひとり、ブランコの下の水たまりに靴をわざとふれるようにして水しぶきを上げて漕いでいました。それを3人の女の子が前から見ていました。男の子はギャラリーがいるのでサービスしようと思ったのか次第に水たまりに深く靴を入れてさらに大きな水しぶきを上げて勢いをつけて漕ぎだしました。女の子たちは2~3歩下がりましたがまた近づきました。もちろん子どもたちがどんなことをしゃべっていたのか、また、その表情もわかりませんでしたが男の子も女の子たちも夢中になっているようすでした。チャイムが鳴ると男の子は泥水の中に降りて水びたしになった靴を気にしながら歩きだし、女の子たちも何事もなかったかのように校舎に続く階段に向かって走っていきました。

子どもたちの行動のほとんどはおとなが考えるような目的や意味を持ってはいないと思うことがあります。そう身体が動いてしまうのだと思います。それは「自発性」と呼ぶということすら思いつかないほどのものかもしれません。でも、前述のブランコを巡る光景は私の目をくぎ付けにしてしまいました。その行動に意味はないのでしょうか。目的も意味もなく子どもたちは過ごしているのでしょうか。

私の目をくぎ付けにしたのはブランコを中心とした目に見えない糸、伸び縮み自在な糸に互いに結ばれているかのような、でも、決して結ばれてはおらず引力のような何かによってそこに寄せられているような子どもたちの姿でした。子どもたちは一見バラバラで勝手に動いているように見えてどこか絶妙な距離感を保っているようでもあり、きっと、何か合理性のようなものがあるのかもしれない。女の子たちはただびっくりして見ているのかもしれないし男の子が靴をびっしょり濡らしてしまってどうするのだろうと心配しているのかもしれない。男の子はどうしてひとりでブランコに乗っているのだろう。見てくれる子たちがいてちょっといい気分かな。チャイムで終わっていなければいつまでも続き、私もまた見続けたであろう光景でしたが、チャイムが鳴らなかったとしても子どもたちは何ら予感させることなく次に夢中になるものを始めていたことでしょう。例えばちょっと走るとか、それこそ何でもない何かに。

あの日のあの光景の意味を求めることはそれこそあまり意味があるとは思えませんが、その光景が示唆する子どもたちの経験にはおとなが思いもよらない大きな何かがあったのではないかと考えています。それを「学び」や「成長」ましてや「発達」といった言葉で何かがわかったように片づけるのではなく、何度も子どもたちの姿を思い返し、思いを巡らして、言葉を尽くして、現象学でいうところの「経験構造を描き出す」営みに身を置くことの何と地平がひらかれていることかと思います。あまりに壮大で簡単なことではありません。先達たちの考え方に助けを求めることもめずらしくはない。それでもその一部しか言語化できないかもしれない。しかし、保育や教育に携わる先生たちはそのことの大切さをたとえ薄っすらであっても経験として知っている。簡単に答えが出るわけではないけれどもそこに身を置き留まって考え続けることを気づかい、心をくだくことこそ子どもを知るかけがえのない道筋だと考えます。

2022/05/05

Xperia 10 III Lite

昨日、自社回線最後発の携帯事業のキャンペーン期間中に手続きをして1年余そのままだったプランをやっと開通させました。手持ちの端末が対応しているかどうか怪しかったのですが液晶画面が全体黄色っぽくなる不具合が出るようになってきたのでそのキャリア専用の端末を購入して乗り換えたわけです。MVNOと一見同じブランドなのにMNP扱いで、1年余前に届いたSIMカードを再発行の手続きをしたMNPナンバーを使って自分で開通するという経験をしました。これまで店頭で物々しく手続きされてきたのはこんなに簡単だったのかとこれは驚きでした。

新しい端末=スマートフォンは「lite」とあって「light」ではないのですが「軽い」という意味合いのようで、実際、端末が届いたときはこれまでのものから二回りくらい小さかったのでこんなはずではなかったと思いました。当然ながら字(フォント)が小さいのです。使っていけるのだろうかと一抹の不安がよぎりました。ところが、いろいろ設定していくうちに軽いので手や腕に負担が少ないことがわかってきました。また、縦に細長いので画面のキーボードの端から端まで指が楽に届きます。解像度はFHDですが小さい字もくっきりしていて視認性はすこぶる良い。また、スクロールが高級万年筆のような“ぬらぬら”で生理的に馴染む感覚があります。そして、自社回線だとデータ通信が速いのか表示を待つストレスがかなり減りました。地方都市だと縁がありませんが5Gにも対応しています。まだ使い始めて1日ですが身体に馴染みます。大きなスマホのメリットは使ってわかっていますがしばらくこの“軽さ”を愉しみたいと思っています。一点、懸念しているのはROMが64GBということで256GBのmicrosdカードを使うことにしました。ポケットに入れても“重い”感じはなく軽快です。

私がスマートフォンを使い始めたのは2009年リリースのiPhone 3GSで、当時は「どうしてそんなものを」と懐疑的に見られていました。それから13年、NTTdocomo誕生の1992年からちょうど30年の歴史で最大のエポックは料金の値下げではなかったのかと思っています。携帯料金の高さが若者の他の消費意欲を削いで経済全般が沈む原因のひとつになったのではなかったのかと考えています。契約時の「オプション」の抱き合わせ商法も罪深い。「これはすぐ解約してください」と販売員が説明することの何という不条理か。その解約はウェブ上で手続きをするので簡単ではなく、それができない人は少なくないと思われる。生活困難な人たちが情報と職と収入を得るために支出を切り詰めて携帯をもつことは残酷ですらある。iPhone 3GSのように小さく軽いXperia 10 III Liteをジーンズのポケットに入れていろんな風景のなかを歩きたいと思うのです。

2022/03/12

キエフ・バレエの「白鳥の湖」

ロシアの侵攻前から私のインスタグラムのアカウントにキエフ・バレエのバレリーナから時々「いいね」をいただいていてウクライナの状況は他人事ではなくなっています。ほどなく、キエフ・バレエがYouTubeで公演を公開するということを知りました。そしてキエフ・バレエの「白鳥の湖」を繰り返し観ることになりました。

その動画から伺えることは、イギリスのロイヤルバレエやニューヨークバレエのような“洗練”ではなくバレエの原風景を伝える芸術性と考えています。

小澤征爾指揮の「白鳥の湖」は楽曲としての醍醐味があってそれはそれは堪能していますが、ふと、これでほんとに踊れるのだろうかと思ったことがあります。

シャルル・デュトワ指揮の「白鳥の湖」はフランスのエッセンスあふれる華やかな演奏でバレエの舞台が彷彿とします。

一方、キエフ・バレエの「白鳥の湖」はそうした“洗練”はあまり伝わってきません。肯定のスタンスでの捉えです。オーケストラの音色は録音のせいかも知れませんが今風の“縦の線”がそろった切れ味鋭い演奏ではないように思います。ゆるさが伝わってきます。バレエの踊りに合わせよう、踊りやすくしようという、そんな気遣いがあるようです。なんだかゆったりしている。バレエ自体もそうです。細かなところが詰め切れていないのではないかと素人目にも映ります。でも、でも、なのです。バレエの歴史と神髄というとても大切な文脈を守り通し伝えているウクライナの芸術文化の核心がそこにはあるのではないかと考えます。荒い言い方ですが土着的な魅力があるように思います。

ロシアの侵攻を機にその公演の動画をYouTubeに公開したことの切羽詰まったウクライナ国民の願いが伝わります。もうひとつの“洗練”であり、失われてはならない文化の継承であり、人間存在の証の現れでもあると思います。力強さがあります。

「客席の子どもの声はカットしたら!?」等々、録音も“洗練”から距離がありますが、客席のそうしたおおらかな“雑音”も愛おしく思うのです。こうした芸術と国民一人ひとりの日常をプーチンは破壊している。失われつつあると危惧される存在の一つひとつに思いを馳せます。

帝政ロシア末期、なぜこのような芸術が社会的にも風土的にも厳しいかの地に生まれたのか。社会史ではなく心性史の観点からどう捉えられているのか、関心があります。

ちなみに、この「白鳥の湖」はテロップが入って物語がわかりやすいです。

2022/02/12

ですます調という文体

いわゆる博論本で「ですます調」書かれた本があります。他にはちょっとない文体です。「ですます調」だと読みやすい、つまり、理解しやすいかというとそうくことではなく、本、著者が語りかけてくるようで興味深く読みました。かくいう私もこのブログは20年以上「ですます調」を基調に書いています。「ですます調」で書くときと「である調」でかくときと何がちがうのでしょうか。私は単に印象に留まらず内容やときとして文脈が異なることもあり得ると考えています。

先日、ある教育実践の事後研修会の講評と助言を仰せつかって資料を用意することがありました。その過程で自分にしっくりくる体裁として、パワーポイントの資料は「である調」で書き、子どもたちの様子を現象学的に分析した文章資料は「ですます調」で書くことになりました。前者はかちっとした仕上がりで、後者は語りかけ調でソフトタッチですがわかりやすさという点では引用も含めてわかりにくさがありました。でも、文体で書き分けたことは今のところ間違っていなかったのではないかと思っています。「である調」では記述が難しいことが「ですます調」ではなんとか言語化できそうと思って書き綴る感じです。もちろん、現象学的分析においてもそのほとんどが「である調」で記述されているので「ですます調」はごく少数派です。

そんなとき、ハイデッガー著『存在と時間』の翻訳をさらに調べていくと、なんと、「ですます調」で訳されたものがあることがわかりました。岩波文庫の「旧訳」です。先の引用部分はこのように訳されています。

情態性は少しも反省されていないので、むしろ情態性は現存性をばまさに、配慮された「世界」へと無反省に譲り渡し引き渡されているさなかに襲うのです。気分が襲うのです。気分は「外」からくるものでもなく、世界・内・存在の仕方として、この存在そのものから立ち昇ってくるのです。(ハイデガー著、桑木務訳『存在と時間(中)』 岩波文庫 1961)

「ですます調」もさることながら「をば」という言葉に目が点になりました。口語体というのかカジュアル調というのか、この訳を紹介したブログには「講演調」とあり、「ハイデッガーがしゃべるのである」などとありました。桑木務訳は古本しか入手できませんがしばらくその文体に浸っていきたいと思わせる魅力があります。対面で誰かに話しかけているような、対話しているような、でも、ぶつぶつと独り言を言っているようでもあります。

2022/01/31

襲うモーツァルト

「人生を愉しむための大人のオペラ講座」で私はモーツァルトに襲われました。モーツァルトの音楽に、カール・ベーム指揮のウィーンフィルに。そのことを知人へのメールでふれたらずいぶんウケたようです。「モーツァルトが襲う」という言い回しはハイデッガーの『存在と時間』を援用した丹木博一著『いのちの生成とケアリング ケアのケアを考える』(ナカニシヤ出版 2016)で知ってなぜか腑に落ちていました。原典はドイツ語なのでまずドイツ語で知ることが大事なのですが、とりあえず手持ちの『存在と時間』から該当する部分の日本語訳を並べてみました。

情態性は反省されていないどころか、配慮的に気づかわれる「世界」に無反省に身をまかせ、没頭しているときにかぎって現存在を襲う。気分とは襲うものなのだ。気分は「外部」からくるものでも「内部」からくるものでもない。世界の内に存在する様式として、世界内存在そのものから立ちのぼってくる。(ハイデガー著、熊野純彦訳『存在と時間(二)』 岩波文庫)

情状性は、配慮的に気遣われた「世界」に無反省に身をまかせ引き渡されているときにこそ、現存在を襲う。気分は襲うのである。気分は、「外」から来るのでもなければ、「内」から来るのでもなく、世界内存在という在り方として、世界内存在自身からきざしてくる。(ハイデガー著、原佑責任編集『存在と時間』 中央公論社 世界の名著74 1980)

心境はことさら反省的なものであるどころか、それはむしろ、配慮された世界へ「無反省」にかかりきっているときにこそ、にわかに現存在を襲ってくる。しかり、気分は襲ってくるものである。それは「外部」から来るものでも「内面」からくるものでもなく、世界=内=存在のありさまとして、世界=内=存在そのものから立ちこめてくる。(ハイデッガー著、細谷貞雄訳『存在と時間』 ちくま学芸文庫 1963理想社版 ハイデッガー選書16巻基)

気分はまったく日常的なもので常時ついて回ります。しかも、何の前触れもなく突然変わったりどこかに飛んで行ったりします。モーツァルトを聴いて私は京都でモーツァルトをよく聴いていた学生のときの「あの感覚」が突然甦ったかのような感覚がどこかから湧いてくるように身体を包んで染み渡ったのです。「気分は襲う」というフレーズの他にどんな表現があるというのだろう。まずもって天衣無縫といわれるモーツァルトの音楽ゆえの魔力があり、その魔力に取り憑かれた私の学生時代があり、半世紀を経た先日、突然、そう、襲ってきたのです。気分について3者の訳は「立ちのぼってくる」「きざしてくる」「立ちこめてくる」とちがいますが、不思議にどの訳もしっくりきます。ほんとに不思議な記述だと思います。ただ、他の部分はなかなか理解が難しい。ここだけ読んでもわからない。

2022/01/29

Windows11+XGworks4

YAMAHAの音源モジュールMU500を購入したのが2001年の秋、同梱のXGworks4も同時に使い始めました。その後、Windowsを買い替える度に、そして、Windows OSのバージョンアップの度にXGworksとMU500が動くかどうか確かめてきました。Mac+Parallels Desktop+Windows OSでも、また、Mac+Boot Camp+Windows OSでも使ってきました。そして20年後、いよいよWindows11 PCで試すことになりました。結果、問題なく動くことがわかりました。あっけないほど簡単にインストールできました。アップデートプログラムでXGworksは4.07になりました。USBドライバはWindows10に対応するために2018年にYAMAHAがアップデートしています。メルカリやヤフオクでXG音源モジュールを見ると今でもけっこうな値段で取引きがされていることがわかりました。やはり音楽は保守的志向なのかと考えてしまいます。音の好みについての話です。以前、Rhodes Pianoが製造終了後あまりに年月が経っているので法的に電気製品として使えなくなるかもしれないというニュースを見たことがあります。Rhodes Pianoは今も使われているのでそれはクリアできたのか私の記憶違いだったかですが、音の記憶は身体に浸み込むもので「この音でなければ!」とこだわる音楽家が少なくないと思っています。「人生を愉しむための大人のオペラ講座」で聴いたカール・ベーム指揮のウィーンフィルハーモニー管弦楽団の演奏もそうでした。ウィーンフィルは決まったモデルの楽器で統一されているので尚更です。XGの音も私の身体の奥深くに浸み込んでいます。Windows11でも使えたということはこの先10年は使っていけるでしょうか。

今回、Windows11 PCにXGworksをインストールしたのは今月から使い始めたLenovo YOGA slim 750 Orchidの機動性を活かしてある曲の打込みと演奏をしたかったからです。ある曲とはホルストの「惑星」より平原綾香が歌った「ジュピター」です。知人がこの曲をテナーサックスで吹くというのでバックはシンセでやってはどうだろうということです。XGのSFっぽい音やオルガンの重低音、そして、シンセストリングスの音などを少し入れるだけでそれなりの雰囲気が出て自分が作ったとは思えないほどのインパクトがあります。こんな作業は面白くてたまらない。夢中になって没頭してしまいます。

2022/01/28

エーデルシュタイン・タンザナイト

“Pelikan Edelstein Tanzanite”という万年筆用インクです。先日、書店の文房具売り場をのぞいたら傷んだ箱に入ったタンザナイトが2つ、値下げされて並んでいました。もちろん2つとも購入しました。早速ペリカン800のМを洗浄して試し書きをしました。ネットでは「書いた直後は紫が見えるがすぐに消えてブルーブラックになる」というレビューが複数ありますがそうした印象はちょっとありません。値下げということはかなり古いインクでそのためだろうかと思いました。かといってそもそもブルーブラックなので何ということはありません。ペンの走りはただただ滑らかです。これまで入れていたパイロットの“色雫”朝顔のさらさらとはまるでちがいます。フローが潤沢なペリカン800Mだとインクがちょっと出過ぎかという印象がありましたがそれは緩和されました。なかなか良い。インク瓶のデザインも秀逸ではないでしょうか。Edelsteinとは宝石という意味のドイツ語です。インク瓶が入っていた紙の箱もベロを引き出して瓶を取り出すという手の込んだ造りでした。50㏄が2瓶なのでけっこう長く使えると思います。この機に万年筆の出番が増えることと思います。なんともいえない満ち足りた心もちです。

2022/01/27

人生を愉しむための大人のオペラ講座

昨夜は津久居アルスプラザのカルチャーボックス「人生を愉しむための大人のオペラ講座」に参加しました。換気がコントロールされた会場に限られた人数、そして、声楽家もマスクを着用して歌うという感染対策が取られていました。そのどれもが講座を楽しむことの大きな妨げにはならず堪能しました。

モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」が生まれた社会背景と歌詞との関連などたいへん興味深いものでした。ただ、私にとっては「モーツァルトが襲ってきた」という学生の頃のあの感覚がかなり薄められてはいましたが戻ってきました。正しくは「モーツァルトの音楽が」と言うべきですが、モーツァルトと彼の音楽との一体感はぬぐい切れないものがあります。小林英雄の『モオツァルト』の冒頭「モオツァルトは歩き方の達人であった。」とはまさに言い得て妙です。ハイデガーばりに言うと「モーツァルトの音楽が襲ってくる」のです。昨夜はオーケストラがカール・ベーム指揮のウィーンフィルで、音も録音も当然ながら当時のものだったのでこちらからのインパクトもありました。ただただ懐かしく、当時、全身全霊を傾けて聴き入った音楽、音でした。

音楽は歴史において遅れてやってくる。そう考えた一時期がありました。フランス革命前夜の「フィガロの結婚」、ロマノフ王朝末期のチャイコフスキーのバレエ音楽、等々、いわゆる社会史とはすぐには結びつかない印象があります。また、ショスタコーヴィッチの音楽は政治によってどれだけ創造性が削がれてしまったのだろうと考えることがあります。作曲家の「本意」はどれだけ作品として表現されているのか。資本主義においては売れるか売れないかによって影響を受けるのは想像に難くないしそれにまつわるエピソードが裏話として話題になる。事は音楽と政治、社会体制との関係です。「人生を愉しむための大人のオペラ講座」シリーズは全3回であと2回が予定されています。コロナが落ち着いて予定通り開催されることを切に願うばかりです。

ところで、こうしたイベントの開催にあたっては音楽はじめ文化的な様々なリソースが一定そろうことが必要条件となってきます。プロデューサー、キュレーター、講師、演奏家、MC、ディレクター、会場、等々です。昨夜の関係者は何役も担って進行していることが一目瞭然でした。「人はなぜそれをするのか」と時々思うことがあります。社会活動然り、笑える行動然りです。昨夜は地方都市ではなかなかふれる機会のない文化的なイベントでした。

2022/01/23

交流及び共同学習について

今年度は思いがけず特別支援学校と近隣の通常の学校との学校間交流、そして、特別支援学校に在籍する子どもが居住する地域の学校に出向く居住地校交流について助言することになり、私にとっては研究の機会となりました。

私が小学校から養護学校(当時)に転任したのが1998年(平成10年)で、転任早々交流担当となって学校内外の調整や企画に当たることになりました。交流について、特別支援学校と通常の学校との“温度差”を実感しましたが、今回、交流及び共同学習にかかる論文等々を調べたところ、その教育目標が不明確だったり曖昧だったりという課題が明らかになっているという記述がありました。また、国立特別支援教育総合研究所の直近の調査研究では、全国の特別支援学校を対象としたアンケート調査結果で理念の共有がいちばんの課題であると明らかにされています。その詳細はわかりませんが、今回の助言の準備を進めるなかで、交流及び共同学習は交流は他の教育活動と比べて情報量が圧倒的に多く、理論面の研究が進んでいないのもそのためではないかと考えました。つまり、交流で子どもたちは想像をはるかに超える経験をしているわけで、それを表面的な評価のみで矮小化してはならないことを交流をいくつか参観して思い知りました。

評価という視点だけでなく、交流場面で一体何が起こっているのかという現象学的視点からも今回は考える機会となっています。交流のみならず学校では日々豊かな営みが繰り広げられていますが、その豊穣を語ったり研究したりする言語化のための言葉や概念は日頃の学校や教育実践研究の中から見出すことが難しいことがあります。交流場面を描くに際しても然りと考えます。今回の資料作成にあたり、他分野の言葉や概念を用いて交流場面の子どもたちの中で何が起こっていてそれはどういうことなのかについて言語化を試みています。とりわけ、保育・幼児教育、哲学、教育哲学の言葉や概念を援用することになりました。「自発/自発性」「子どもを“よくなろう”としている存在として信頼」「ケア/ケアリング」「個別具体的なその人を知る」「相互性/相互関係性」「夢中/没頭」「生成としての教育」などです。これらの全てを直接引用したり援用したりしているわけではありませんがこれらの言葉や概念なくして今回の準備はここまで進められなかったことは確かです。

また、「フォーマルな交流」と「インフォーマルな交流」という言葉も久しぶりに、ほんとに何年かぶりに思い出すことができました。

コロナ禍のために対面交流が困難になってオンライン交流が行われるようになりました。オンライン交流はまだまだ始まったばかりでインフラの課題もあります。対面交流と同じことはできませんが病弱教育では入院中の子どもと学校とをインターネット接続でつなぐ取り組みが10年以上も前から行われて教育的な成果を上げています。いつまでもコロナ禍が続くわけではないと思いますがオンラインの教育活用はハード、ソフトともに研究が加速的に進むことを願っています。

2022/01/12

40日ぶりのツーリング

3連休最終日、40日ぶりにバイクで走りました。この連休は晴天で風も弱く気温もそれなりにあったので絶好のツーリング日和でした。鈴鹿方面の山は積雪があったので山行も考えましたが連休前日は冷えからくる頭痛があって断念してのソロツーリングでした。1日目と2日目は終日仕事をして3日目はリフレッシュのツーリングとしました。

エンジンは一発でかかってほっとしました。行先は昨日からパールロードの鳥羽展望台と決めていましたがあまりに久しぶりなのでバイクショップで空気圧の調整とチェーンへの給油をしてもらってから向かいました。余分なオイルを拭き取ったチェーンはとてもきれいでした。ウエアは上下とも厳寒期用ではなく秋冬用のものにしたので汗をかかずに快適でした。バイクに乗れるだけで幸せな気分だったので交通の流れに乗って走りました。ただ、クラッチレバーを操作する左手と左腕は筋を傷めているのかずっと痛みがありました。

鳥羽展望台は雲一つない晴天で風はやや冷たいものの気持ちの良いものでした。コロナの感染が急拡大しているためか車もバイクも少な目と感じました。それでもバイクは個性豊かなモデルをたくさん見ることができて堪能しました。比較的年齢層が高いライダーが多いのも頼もしく思いました。そんな一人、私よりちょっと年齢が高めの上下とも革で決めた男性がYAMAHA SRX6のエンジンをかけてキャブレターを調整している光景は絵になっていました。

帰路は高速も考えましたが第二伊勢道路と南勢バイパスを通って帰ってきました。途中、松阪港に寄って記念にと海をバックにバイクの写真を撮りました。

今日の走行距離は150キロ余でしたが帰宅してバイクから降りると全身が軽くなっていました。バイクに乗るとなぜ身体が軽くなるのか。四肢の動きが軽くなるのか。不思議です。前に1泊2日で信州まで往復900キロを走って帰ったときも4時間くらい休んでそのまま東京まで車で走ったことがあります。両手両足を使ってバイクを操作するのは四輪のMT車のそれと似た感じがあります。頭の芯が目覚める感じです。この身体感覚は若返らせてくれるように思います。

パール・バック『母よ嘆くなかれ』

音楽療法の研修資料で前に作成したスライドからパール・バックの引用を使うことにしました。ポール・ノードフ、 クライブ・ロビンズ著、望月 薫訳『障害児教育におけるグループ音楽療法』(人間と歴史社 1998) に寄せたパール・バックの「序」の一部です。 遅滞のある、ゆっくりと考える人た...