2020/03/28

オンライン最終講義

今日、東京大学教授沼野充義先生の最終講義をYouTubeのライブで視聴しました。質問の時間を含めて2時間はあっという間でした。面白かった。知的好奇心を掻き立てられるとはこういうことかと身をもって経験しました。テーマは「チェーホフとサハリンの美しいニヴフ人――村上春樹、大江健三郎からサンギまで」でした。チェーホフと村上春樹、大江健三郎、そしてサンギを結ぶのは何か。「周縁」「周縁性」「周縁文学」がキーワードでした。地理的にも文学上も周縁の存在であるところの人々と彼らの営みです。社会的にも政治的にも周縁どころか虐げられてきた人々が豊かな文学上の営みをしていたことを知って血が騒ぐ思いがしました。チャットでの「水脈が次々につながっていく感じが沼野さんの講義の醍醐味!」とはまさに言い当て妙と思いました。そして、文学の魅力をあらためて思いました。

今回の最終講義のライブ配信は新型コロナウィルスの影響ですがこれは他人事ではなくなってきました。私の大学の授業は後期ですがオンラインのシステムは大学の指示によるにしてもどんな構成、伝え方がいいのかと情報を集めています。オンラインならかえって双方向のやりとりが増えるのではないかと、そんな気もしています。Twitterでは大学の教員らが情報交換をしていて参考になっています。

2020/03/27

本のことなど

昨日は和歌山街道沿いの山間部の道の駅までバイクに乗りました。この先あまり晴天が望めそうにないこともあったのですが来年度の仕事がほぼ固まってきて一段落したこと、そして新型コロナウィルスの感染拡大がこの先見通せないことでやきもきしていたので気分転換をと思ってのことです。果たして、BANDIT 1250SAはいつになく軽快に走ってくれてリフレッシュしました。私の場合、感染予防の3条件を考えると余暇の過ごし方は登山かバイクとなります。考えることは誰もいっしょで学校が臨時休校のときは平日から山はずいぶんにぎわっていました。小学生の孫と健脚のおばあちゃん、楽しそうにお喋りしながら山道を登る女子高生、平日の午後なのに駐車場に入りきれない車が列をつくって路上駐車をするほどでした。先週末に登った鈴鹿の入道ヶ岳の頂上はざっと見て200人くらいの人、人、人で驚きました。

上記の私のやきもきとは、もっとあるはずの情報にアクセスできないことも大きな一因です。テレビやラジオのニュースや報道番組もどこまで事実を伝えているのかと疑いをもって接しています。NHK-BSの海外のテレビ局が制作したニュース番組を見ると国内のマスメディアが伝えるニュアンスとずいぶんちがいます。時間の都合か知らされてないのか。そんなこんなでニュース番組を次から次へと録画すると見る時間がない。そうしたとき新聞はありがたい情報源と思っています。「批判的」な記事はなおさらですがクールに読むようにしています。講読しているのは一紙ですが目に飛び込んでくる記事は多彩です。

一昨日3月25日(水)の朝日新聞夕刊の「read & think 考える」は新型コロナウィルスの「脅威に向き合うために」という見出しで6人の書評家らが関連する本を紹介していました。もちろん感染症を医療から描いた本ではありません。篠田節子『夏の災厄』、澤田瞳子『火定』、皆川博子『疫病船』、小林照幸『検疫官』、川端裕人『エピデミック』、ホーフマンスタール『騎士バッソンピエールの不思議な冒険』(小堀佳一郎訳)です。ノンフィクションは6冊中1冊です。5冊は文学作品です。小説に構成される世界は読者に心を揺さぶるリアリティを突きつける。私はどれも読んだことがありませんがどれもが気になる本です。

ロックダウンが現実味を帯びてきていると伝えられます。WHOがパンデミックを表明する前ですが、NHKの「グレートヒマラヤトレイル 遥かなる天空の道」を観ていてはっとした場面がありました。グレートヒマラヤトレイルの最奥の村タシガオン(2,100m)に着いた撮影隊が村のことをもっと知りたくて長老をたずねたところ、73歳のテンジン・ノルブ・シェルパさんとのやりとりはこのようなものです。「ここで生まれたのですか?」「まだ小さな子どものころに連れてこられました」「下の村で結核がはやってみんな死んでしまったんです」「ある者はこちらの森へ ある者はあちらの森へと放牧に適した場所へと移っていきました」「昔はこのあたり一帯は全部森で家は1軒だけの開墾地でした」 結核から逃れるために下の村を離れたと読めます。下の村では結核のためにみんだ死んでしまったとのこと。そうして病気の感染を断ち切ってきた歴史があるということでしょう。

今日読んだのは小手鞠るい著『空から森が降ってくる』(平凡社 2019)でした。ニューヨーク州ウッドストックの森に終の棲家を見つけた著者は小説を書き、花を愛で、動物たちと過ごし、山に登って暮らしている。2月に訪れた伊那市の小学校の森と森の教室で学ぶ子どもたちを思い出しました。静かで熱い感動を教えてくれる本でした。

2020/03/22

松本侑子『みすゞと雅輔』

昨日、松本侑子著『みすゞと雅輔』(新潮社 2017)が届いてパラパラと拾い読みをすると文化史のような気配があって目が吸い込まれるように読み始めていました。私は金子みすゞの詩は有名なものしか知らず、また、自殺したことも初めて知りました。実弟の上山雅輔に至ってはその名前を全く知りませんでした。果たして、近代文学に関心を寄せているので当時の文芸の状況が描かれていることを興味深く読んだ次第です。帯の言葉が本書のそうした記述をよく表していると思います。「大正デモクラシーにめざめ 「赤い鳥」と童謡を愛し 白秋、八十にあこがれ みすゞの詩に、心ふるえる。 昭和モダンの東京 菊池寛の文藝春秋社で 古川ロッパのもと、働く。 みすゞは、自殺 雅輔は、自死遺族に 時代は、昭和の戦争へ。 弟の胸に残る みすゞの瞳の輝き 忘れえぬ青春の日々……」 上山雅輔は「膨大な日記」を残しており、本書は「弟の目を通して描く」とあります。描かれているのは、しかし、金子みすずと上山雅輔、ふたりに近しい人たちだけではありません。日本の近代に生きた人たちの姿が浮かび上がってきているように思いました。著者は本書を「フィクション」と書いていますが限りなく忠実な史実に近いのではないかと思います。少なくない文人たちが戦争を礼賛する作品を世に出したことも史実として淡々と記述されておりそれが金子みすゞの創作に光を当てています。それにしても日本の近代はどいういう時代だったのか。近代は今も続いているのだろうかと考えてしまいます。

2020/03/17

カミュ『シーシュポスの神話』

カミュの『ペスト』が売れているとのこと。新型コロナウィルスの感染拡大がその背景にあるらしい。私も再び『ペスト』を紐解くことを考えましたがどこか文脈が異なるように思われて本業に時間を注ぐようにしています。そんな中、ツィッターで毎日新聞書評面「今日の本棚」の記事が目に留まりました。カミュの『シーシュポスの神話』の文字があったからです。「この3冊 向谷地生良・選 不確かな時代を生きる ①シーシュポスの神話(カミュ) ②オープンダイアローグとは何か(斎藤環) ③ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力(帚木蓬生)」です。私は3冊とも読んたことがあってどれもが心に残っています。とりわけ『シーシュポスの神話』は20歳の頃繰り返して読んだ本です。神の怒りをかって巨石を山の頂上に押し上げることを永遠に繰り返すことになりますがいちばんの苦しみは手持ち無沙汰で山を下るときに思考することであったという下りは衝撃的でした。不条理を背負っているゆえに考える時間はよりシーシュポスを更に苦しめたということか。「われ思う、ゆえにわれあり」や「人間は考える葦である」など、人は思考することでその生が満たされると言われてきたのではなかったのかと私は訝しく思ったものでした。答えのないことがたくさんあることを身をもって知り始めていた私はその物語に底知れぬ恐ろしさとともにリアリティを感じていたのだと思います。帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力』は答えならぬ解決のない事態が描かれています。

先週はまた中井久夫著『西洋精神医学背景史』(みすず書房 1999)が届きました。題名のとおりこれは歴史書であると思いました。人間の歴史について書かれた本です。人間のあらゆる営みを描くことで精神医学なるものが浮き彫りされていきます。私にはなかなか理解が難しいところがありますが私の目を捉えて離さない記述もまた随所にあります。NHKのドラマ「心の傷を癒すとは」の主人公は高校の頃から中井久夫の著書に読みふけります。どの本かはわかりませんが『西洋精神医学背景史』と同じ文脈で書かれていることと思います。私がこの本で得るものは知恵ではないのかと、そう思います。

2020/03/08

藤原岳と梅園

昨日は昨年11月以来のマスツーリングでいなべ市農業公園梅園に行きました。天気もよく距離は200km弱でしたが夜になってけっこう疲れているこことがわかってきました。そもそも身体を動かす機会が少なくなってきていることの影響を実感しました。でも、疲れたことで久しぶりにぐっすりと眠ることができたように思います。バイクもまたバッテリーがあがってしまわないくらいに乗るだけだったのでバイクの動きや反応が新鮮でした。もっと乗る機会をふやしてていねいに乗ってやりたいと思いました。公園は梅の花もきれいでしたがうっすらと雪が残った山肌に冬枯れの木々が立ち並ぶ藤原岳も壮観かつ繊細で絵画的でした。この季節に藤原岳を北東側から見るのは初めてでした。雪が積もったら登りたいと思っていましたがスケジュールと合わずに持ち越しです。→Instagram

アイキャッチ画像は当日の藤原岳上空の空です。

2020/03/01

最後の授業

先週の水曜から木曜にかけて長野県伊那市に行って小学校を訪問していました。その帰路、ステップワゴンのラジオで3月2日からの臨時休校の第一報を知って途端に慌ただしくなりました。翌28日金曜日の授業が最後の授業となったわけです。学年末考査が終わったら教科書の他にも授業で取り上げたい作品をいくつか考えていたのですがいきなりの最後の授業です。私は18歳のとき出会って今もいちばん身近に思っている村松英子の詩「欲しい」を取り上げました。

欲しい

私は欲しい
視界から瞬時に消える
かもめの胸を

私は欲しい
ひきがねにかけられた熱い指を
丹精の薔薇を切る園丁の瞳を
岸壁に傷つく海のわき腹を

身をこがす
激しい愛の魔術が
嘘のように白く解ける一瞬のその清らかな顔を
私は欲しい

ふたたび
私はのぞまない
ただいちど
ひとが出会う
死の刹那
その心を
私は欲しい

村松英子1971『一角獣』より

「丹精の薔薇を切る園丁の瞳を」という一行に目が釘付けになりました。齢80に届かんとする風情の園丁が思い浮かんで見事に咲いた丹精の薔薇を見つめるそのまなざしに高校を出たばかりのとき惹かれたわけで今も同じです。

アイキャッチ画像は先週2月27日木曜日、伊那市から望む仙丈ケ岳にかかる雲の空です。

2020/02/24

映画音楽2題

ひとつは「戦場のピアニスト」、もうひとつは「シンドラーのリスト」です。どちらもNHKで放送がありました。どちらも第二次世界大戦下のナチスによるユダヤ人迫害を描いています。「戦場のピアニスト」は表題通り音楽も登場人物の如く物語で大きな役割を果たします。「シンドラーのリスト」は劇伴としての音楽です。

「戦場のピアニスト」は追いかけ再生を観始めたらそのまま最後まで観入ってしまいました。実話に基づく映画です。目を伏せたくなるような凄惨なシーンが続きます。隠れていたところをドイツ軍大尉に見つかり、職業を聞かれて「ピアニスト」と応えて弾くように言われて弾いたのがショパンのバラード1番でした。大尉はその演奏を聴いて彼を捕えようとしないばかりか食糧も自ら届ける。現実は小説よりも奇なりといいますがこの映画を観るとやはり音楽の力を思わずにはいられない。ただ、映画の全編にわたって音楽が流れるという作りではありません。それゆえ廃墟で弾くバラードが一層印象深く響くのかもしれませんが取り寄せたサウンドトラック盤CDの演奏はどれも惹きこまれてしまいます。コンサートで聴くショパンとはどこかちがう音楽だと思います。

「シンドラーのリスト」の音楽はイツァーク・パールマンのバイオリンが素晴らしい。作曲はジョンウィリアムズです。今回、映画を観ながら聴くとそれは終わりのない、完結しない音楽のように思いました。旋律が上行と下行を限りなく繰り返しているように聴こえます。戦争の犠牲となった人たちのやり場のない悲しみが永遠に癒されることがないように音楽もまた延々と続くのだ。サウンドトラック盤のテーマは4分10秒余りですが終わっても終わった気がしない。解決も完結もない後味が残ります。音楽の理論上、構造としては終結していますが音楽が紡ぎだした情感は終息されずにいるとでもいうべきでしょうか。このような音楽も音楽療法の場で奏されることが相応しい場面があるはずです。

2020/02/23

近代とは何か

今頃なぜ近代かというと先日の国際障害者年連続シンポジウムの基調講演の中で近代という言葉が使われて妙に記憶に残っているからです。伏線としては小林敏明著『夏目漱石と西田幾多郎 共鳴する明治の精神』や同じく『風景の無意識 C.D.フリードリッヒ論』などがあって近代社会が人に与えた心理的身体的影響に関心が向いていたことがあります。そんな折、ちょうどここしばらく高校国語で中島敦の『山月記』や夏目漱石の『こころ』を取り上げる中で「近代知識人の苦悩」や「心身二元論」という言葉が指導書にあってここぞとばかりに近代という言葉が迫ってきました。近代とは何か、どんな時代だったのか、そのとき人はどうであったのか、今と共通することはないのか、等々、自分がいかに知らなかったかと今更ながら少しずつ調べています。そして夏目漱石全集と西田幾多郎全集もこの機会にと揃えました。現行のものはとても手が出せないので一世代前のものですが手紙や日記、講演録などにも触れることでふたりの息遣いを感じることができるのではないかと思います。

今取り寄せ中ですが、佐藤泉著『漱石 片付かない「近代」』(NHKライブラリー 2002)の説明は言い当て妙だと膝をポンと打ちたくなりました。「未完成であったり、まとまりの悪い作品を多く残した漱石の、その謎とはなんなのか? 近代国家と近代社会の成立現場を目撃し、そこを舞台に小説の文体で思想を提示し続けた漱石。時代を超えて読み継がれてきたその作品群は、大きな変動期といわれる現在、きわめて示唆的である。」上記の通り2002年、およそ20年前の言葉です。朝日新聞が「こころ」を再連載したのが2014年で反響も小さくなかったように思います。やはりその2014年当時、その時代に生きる人の状況に訴えかけるものがあるというコメントが目に付きました。100年ぶりの連載でした。その間、幾多の戦禍や高度成長、持続可能な社会を模索する時を経て今なおあらたな発見があるということは、つまり、今に至って近代は終わっていないということではないのだろうか。西田幾多郎もまた近代という時代の中で苦難の連続の人生であり、彼の哲学はその体験なくしては成りえなかったことと考えさせられます。夏目漱石や中島敦、芥川龍之介、横光利一らの作品は歴史上は近代文学とカテゴライズされますが読み続けられるべき古典としてこれからも高校の教科書に掲載され続けることを切に願うものです。

2020/02/19

哲学という態度

時に読むのが怖くなるというかなぜ今までこの本と出会わなかったのか、なぜ知らなかったのかとページをめくることに躊躇してしまうようにして読む本があります。一昨日届いた本もまさにそうした1冊でした。でもどこからその本を知ることになったのか…思い出せないことが少なくありません。今回はフリマサイトの関連商品に入っていて目に留まりました。その本は肢体不自由の子どもと過ごした経験がある私にとってはその日々や刹那に感じていたことを紐解く考え方が示されているように思います。もっと早く知りたかったと思うのはいつものことですが2012年刊なので担任から離れていた頃ですぐには知り得なったのは致し方ないことです。重症心身障害児とされる子どもたちの教育の最前線と現象学とをつなぐまことに得がたい論考であり研究です。当然ながら発達障害の子どもの教育の考え方にも重要な示唆があります。今頃の出会いですが少しずつ核心のようなものに近づきつつあるような、そんな予感があります。現象学というキーワードから広がる世界のなんと奥深いことかと思います。次世代の先生方に伝えたいと思うのは歳のせいだろうか。でも、疎ましく思われても伝えたいと思う。

やはりネット検索していて偶然知ったことです。岩波書店のPR誌『図書』(2002年11月号)の巻頭言に教育哲学者の上田薫氏の「祖父西田幾多郎と私」を見つけました。岩波書店が5回目の西田幾多郎全集の配本を始めるに当たって依頼したものと思います。この中で氏は戦争体験が「論壇哲学」に強い違和感を覚え、アカデミズムからそれていったこと、しかし、心が哲学から離れたのではなく祖父の生き方から学びとったものは生々しく上田氏の根底にあると記しています。82歳のときの言葉です。上田薫氏は昨年11月に99歳で亡くなりました。文部科学省は現行の学習指導要領について中央教育審議会で審議するに当たって氏に意見を求めています。戦後初めて学習指導を編纂したとき手がけた氏の語りは生き証人としてNHKのウェブサイトで視聴することができます。(こちらから)哲学は学問領域のひとつですがそれは自分自身の態度でもあると私は考えています。哲学はいつもいつまでも生々しく自分の中にある。それゆえ哲学と現実の事象を絶えずつなぐエネルギーが必要であり、それが態度ということになるのであろうと考えます。上述の教育の最前線と現象学をつなぐ研究はひとりの理学療法士の日常から生まれました。「子どもの理解は認識としてではなく、子どもとかかわる行為のなかでなされる」(矢野)ことから生まれた本であると考えます。

2020/02/10

当事者研究の文脈

先週の土曜日、国際障害者年連続シンポジウムに行ってきました。会場は立命館大学衣笠キャンパスの創思館でした。シンポジウムのテーマは「自立生活運動・オープンダイアローグ・当事者研究」で、熊谷晋一郎先生の基調講演は当事者研究についてその構造の核心を教えていただいたと思いました。キーワードは「当事者研究、当事者活動、内側のダイバーシティ、ドーナッツ、トラウマ、虐待経験、身体、物語、依存、依存症自助グループ、言いっぱなし聴きっぱなしの対話、対話概念の拡張、ライフスタイルの再構築」だったでしょうか。当事者同士の活動の行き詰まりは何も障害や病気がある人たちに限ったことではなく社会学の講義を聴いているようでもありました。「言いっぱなし聴きっぱなしの対話」の発見とそれを「対話概念の拡張」という言葉で概念化するあたりは絶妙だと思いました。そこに至るまでの内側のダイバーシティの「歪み」の存在をきちんと認めるスタンスもまた素晴らしい。言葉を発見する研究そのものだと思いました。当事者研究については本で読んだことがありますがこうして直接その場で話を聴くことでキーワードの一つでもある「身体」が納得する感覚を実感したと思っています。

先月1月12日(日)の東京大学大学院総合文化研究所・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP:The University of Tokyo Center for Philosophy)の「哲学×デザイン プロジェクト19 障壁のある人生をどのように生きるのか」のことを思い出しました。たいへんフランクで開かれた空間でした。「私、ワンオペでやってます」「だいたい6時までには終わります」「誰からしゃべってもらいますか?」というセンター長の肩ひじ張らずの語りにどのスピーカーもどうしてもアドリブが入ってしまうといったしゃべりで実に面白かった。その周りでは就学前くらいの子どもたちが走り回る。前の壁全体ががホワイトボードになっていて意見や感想を書くときには子どもたちが思いっきり落書きを始めて私はそちらの方ばかり見てしまいました。肩の力が抜けるとはこういうことかとこれも身体が納得しました。こうしたイベントは私が住む地域では知らないだけかもしれませんが開催されたという記憶がありません。そもそもイベントなのです。研修会でも研究会でもなくイベントです。当事者も研究者もいっしょに来た家族や赤ちゃんも国会議員もみんなごちゃまぜなのに、それゆえなのか、それだからこそなのか、風通しの良い開かれた空間が広がる。UTCPのウェブサイトのポリシー(例えばこちら)を読むとそれがよくわかります。自分たちで自分たちのことを決めていこうとすることはもちろん簡単ではない。でも、そうしていかなければならない場面はたくさんある。そうした場面のまさに当事者として自分がどう居るのか、未知のことだけどわくわくしてしまうのではないかと思う。

障壁のある人生をどのように生きるのか?(1) * 障壁のある人生をどのように生きるのか?(2)

アイキャッチ画像はシンポジウム当日の京都の空です。

パール・バック『母よ嘆くなかれ』

音楽療法の研修資料で前に作成したスライドからパール・バックの引用を使うことにしました。ポール・ノードフ、 クライブ・ロビンズ著、望月 薫訳『障害児教育におけるグループ音楽療法』(人間と歴史社 1998) に寄せたパール・バックの「序」の一部です。 遅滞のある、ゆっくりと考える人た...