2025/08/16

下鴨納涼古本まつり

 京都下鴨神社薫の糺の森が会場の下鴨納涼古本まつりに行ってきました。古本まつりなるものに行ったのは初めてで、しかも神社の境内なので見るものすべてが新鮮でとても面白かったです。この古本まつりを知ったのは県内の古書店のインスタグラムです。時間ができたので思い立って行った次第です。小川に沿った木立の両側にテントの古本屋が店を出していて一見そんなに多くはなさそうでしたが木立の中とはいえ気温も湿度も高く大勢の人たちに交じってじっくり見て回ると時間も体力も要りました。それでもこの機会と3時間半いました。


屋外の古本まつりはどの店もよく見渡せるので訪れた人たちもまた然り、本を探しながら否が応でもマンウォッチングをしてしまいました。私と同年代の年配もいましたがやはり多いのは大学生や院生と思しき若者でした。話が聞こえてきてもさっぱりわからない。日本の古典文学らしい。図像学という言葉も聞こえてきました。流暢に日本語を話す外国人と思しき若者や昔の絵を一枚一枚繰って見ているのは観光で訪れた人たちか。浴衣を着ているのは散歩がてらか。こうした風景はやっぱりいいものだと思いました。


肝心の本はといえば私のお目当ては満蒙開拓青少年義勇軍関係資料でした。最初の店で満州の本が4冊あったのですが青少年義勇軍関係ではありませんでした。すべての店を隈なく見て回ったわけではありませんが満洲や当時の中国の日本軍に関連した本は探せばあるという感触でした。古本祭りや古本市は県内や近隣の府県でもけっこう開催されていることがわかったのでまた訪れてじっくり探したいと思いました。

2025/08/03

バイク談義

昨日、ぽっかり空いた時間にBanditで走りました。実に半年ぶりか。久しぶりにエンジンをかけると4気筒1250ccの図太い音がしてやっぱりいいなぁと思いました。センタースタンドを立てて洗車の後、水の拭き取りは届いたばかりのマイクロファイバークロスを使うと木綿のタオルのときのような拭き跡もなくきれいになって驚きました。汗だくになりながらも嬉々としてその勢いで走ることにしました。目的地は紀北町の始神テラスです。何のことはありません。そこのアジフライ定食がお目当てでした。伊勢道から紀州道と高速ばかりで難しいコースではありませんがやっぱりバイクは乗って走って堪能するもので心身ともに目覚めた感がありました。マニュアルミッションなので両手両足をそれぞれ協調させて動かすのも心地よい。身体が喜んでいるようでした。しかし、暑かった。身体中の細胞の一つひとつが渇水状態になっているような絞り切った感覚でした。

Banditは重量が250kg超あって年々取り回しが難しくなってきたように思われて車検のない250ccクラスに乗り換えを考えていました。しかし、やはり大型の安定した走りと図太い音はたまらない。また、今日はセンタースタンドもそこそこの力で1回で立てることができました。停止時は緊張感を伴いますが走り出すとその重さは気になりません。さて、どうするか。

2025/07/29

教師の語りの“態”

先日、職場で同僚と話をしていて個別の指導計画の文のわかりにくさが話題になりました。入院中在籍した病弱特別支援学校から前籍校に戻るときの指導計画の計画というより在籍中の学習についての記述です。わかりにくさの例として、ひとつの文に主語が曖昧なまま子どもと先生とが混在していることが挙げられました。読んでいると主語が子どもから先生に、あるいは先生から子どもに変わっているというわけです。私自身、自分で書いているうちに、また、書いた文を読んで「おかしい」「変だ」と思うのに書き直せないことがあります。そんなときは全部を消して一から考え直すのです。それでも前籍校に伝えたいこと、書き記したいことが読み手にわかりやすく言語化されているようには思えないことがあります。同僚の指摘は正しい。だが、そのような主語が曖昧で文の途中で主語が入れ替わってしまうようなことが私だけでなくしばしば起こっているとのことで、それはなぜかと疑問に思いました。主語が入れ替わるというのは、いつの間にか「態」が変化しているようであり、気をつけていないとそうとはわからないほどの巧みさでそこに織り込まれているというべきかもしれない。もしかすると教育の営みの核心に触れるかもしれない問いではないかと胸騒ぎを覚えます。

2025/07/12

Motorola Edge 50 Pro

一昨年10月に購入したスマホが二つ目の不具合が出て買い替えることにしました。キャリアの通話アプリが使えなくなったこと、そして、テザリングが使えなくなったことです。通話アプリは使うたびにアンイストールしてあらたにインストーしなければならず、電話なのに通話ができないという不具合でしたがそもそも通話をする機会がほとんどないので目をつぶっていました。しかし、デザリングは仕事で毎日使っているのでこの不通は致命的でその日のうちに購入しました。偶然にもAmazonがセールをしていて助かりました。いわゆる機種変更はAndroidの引き継ぎ機能を使って十数分で終わりました。テザリングのパスワードも引き継がれて驚きました。


新旧の機種はMotorola Edge 40→Edge 50 Proです。同じメーカーだと同じ不具合が出ないかと一抹の不安がありますがそのコストパフォーマンスには抗えません。Edge 50 Proは昨年の7月発売モデルなのでお買い得感がありました。Edge 40は2023年10月から使い始めて翌2024年4月にキャリアの通話アプリが使えなくなる症状が出ました。以来、電話をかける度に通話アプリのアンイストールとインストールを1年3か月もしていたわけです。そして、先週木曜日にテザリングが使えなくなりました。酷使したとはいえEdge 40は1年と9か月と短命でしたが使い勝手はすこぶる良いものでした。何かにつけてレスポンスがよく動作が機敏、写真を撮りたいときにシャッターが切れる、動画もきれいでその軽さと相まって長時間撮影しても手が疲れない、シャッター音が小さいので周りを驚かさない、SDカードは使えないものの256GBのストレージは余裕がある、等々、よくできたスマホでした。SIMを抜いたので単体としては使えませんがバイクのナビ等として活かしていきたいと考えています。


Edge 50 ProはEdge 40と比べるとやや細身なので長く見えます。やはり軽い。といってもケースに入れると体感的にそれなりの“重さ”となります。動作はさらにスムーズになったと思います。RAMは12GBでEdge 40の倍もあるので安心感があります。左右のエッジにRがついた画面の保護は曲面通りにフィルムが張り付くタイプを使ってみました。ケースは“当たり”と出会うまで試すことになります。


※追記

Edge 50 Proは使い始めた翌々日にAndroid 14から15に更新されました。

2025/06/27

トルストイと音楽

 4月半ばの土曜日の夜、映画「教皇選挙」を観に出かけました。その映画館というかシネマコンプレックスのエントランスに小さな音で児童合唱が流れていました。「COSMOS」でした。とても意外に思いました。卒業式の頃でもないのに、と。でも、耳に心地よく、私を包み込むように感じました。高い天井を見上げてしばし聴き入りました。オデッセイのHDDをフォーマットしてバレエ音楽だけを録音して何か月になるでしょうか。毎日バレエ音楽だけを聴き続けて、それはそれで満ち足りたドライブです。でも、シネマコンプレックスのホールの高く暗い天井から降り注ぐように聴こえてきた「COSMOS」はとても印象的でした。もう一度児童合唱を聴こうと思いました。そして、今日そのためのディスクを用意しました。

思いがけず聞こえてくる音楽にふと足を止めて聴き入るという光景は容易に浮かべることができると言っていいでしょう。心を奪われる経験のひとつです。音楽の引力は抗いがたいものがあります。先日、京都の関西日仏学館で開催されたロマン・ロラン協会の名倉有里氏の講演「ロマン・ロランとトルストイ」の後半のフロアとのやりとりで音楽家と称する男性からこんな質問がありました。トルストイは音楽にあまり肯定的でなかったが彼自身は作曲をしていてその作品はなかなかのものとのことで、そのことについて名倉氏の意見を乞いました。名倉氏はトルストイの考えはよくわかる、音楽を聴くとそこに吞まれてしまうという趣旨の話をされたと思いました。私は浴びるように音楽を聴きたい、浸りたいと思っているのでたいへん興味深く受け止めました。小林秀雄は「モオツァルトは襲ってくる」趣旨の記述を著書『モオツァルト』に残しました。そのことを知った高校生だった私は甚く腑に落ちるものがありました。モーツァルトの音楽は抗いがたく何気ない日常にも内から湧き出るように聴こえてきた時期がありました。そうなると目の前のことに気が入らず、つまり、勉強に身が入らずただ時間だけが過ぎていったものです。名倉氏は自らの経験から「音楽は言葉を奪う」という趣旨で話をされたのかもしれません。それはわかります。わかりますが私は音楽の真っただ中で身も心もそこに委ねたいというささやかな思いがあるのです。

トルストイの件の著書『芸術とはなにか』(河野與一訳 岩波文庫)を取り寄せたところ初版は昭和9年、届いたのは昭和33年2月25日 第19刷改版の本が届きました。私が生まれて2か月の頃の本です。黄ばみどころかページは周囲が茶色に変色してそれが活字のところを装飾しているように見えます。目次が見当たらないのでどこにどんなことが書いてあるかすぐにはわからない本ですが音楽のところは読みたいと思っています。

2025/06/15

安曇野と大町、そして京都へ

 先々週の土日は安曇野と大町へ、また、この土曜日は京都に行ってきました。それぞれ期待を大きく上回る充実した時間でした。道中もまた。その一つひとつはまだまだ未消化なので備忘のために差し当たって行程を箇条書きで記すことにします。

6月7日(土)安曇野

・中津川ICを出て国道19号線を北上 

・井口喜源治先生に学ぶ会に参加

・夜は大町温泉に宿泊

6月8日(日)大町

・居谷里湿原を散策

・鷹狩山にオデッセイで登って北アルプスを望む

・大町市立山岳博物館

・田んぼの中のそば屋で昼食

・いわさきちひろ美術館

・田淵行雄記念館

・塩尻北ICを出て国道19号線を南下

6月14日(土)京都

・鴨井玲展

・ロマン・ロラン研究会主催 名倉有里氏講演会「ロマン・ロランとトルストイ」


先週は仕事もまた“充実”していて昨日は心して京都までオデッセイを走らせました。今日は2週間ぶりに自宅でまったりする時間があったので朝から溜まっていた新聞をチェックしました。それに朝6時から4時間もかかってしまい、午後は1時間ほど午睡をしました。


この2週間にカーポートから玄関までのアプローチのポットの花と裏の畑と花壇の野菜と花、そして雑草は梅雨の雨を得てぐんぐん大きく、また、花を咲かせてきていました。支柱に巻きつかないキュウリを紐で結びつけ、四方八方に延びるトマトの枝をばっさり切り落とし、ピーマンに付いたカメムシのような虫を振るい落とす。今日の最高気温は31℃だったようです。暑かった。水ばかり飲んでいました。

2025/04/26

玄関先の花

 玄関先のパンジーが文字通り咲き誇っています。春の花はこれまで何年もビオラばかりでしたが昨年10月に売り時を過ぎたパンジーが値下げしているのを見つけました。商品名は「ミニパンジー シトラスMIX 10株パック」で、白、黄、オレンジの3色です。これを2パック買い求めました。花カスを切って苗をポットに植えたのは10月20日でした。ほどなく花が咲き始めましたがしばらくしてパンジーの切り戻しを知って花がすっかりなくなるほど切り込みました。それが良かったのでしょう。何本もの太い茎が伸びて今の姿となったわけです。見事な咲きぶりですがちょっと残念なのはオレンジ色の花が少ないこと。長く咲き続けてほしいのですが長くてあと1月です。夏の花の準備をしないといけない。日日草にしようか。ずっと夏の花だったインパチェンスは年々酷くなる猛暑に耐える姿が可哀そうで一昨年から日日草にしました。もう少し考えよう。

2025/04/21

メダカ捕り

 年度当初に理科の教科担当からメダカが要るのでどうかならないかと相談がありました。6月の内容なのでしばらく時間がありますがどうしたものかと思案していた先週末、実家の畑の草刈りに行くとき道に沿った用水路にメダカと思しき魚影がありました。ここでメダカを確保しようとその日はタモなどを買いそろえて帰りました。翌日曜日の昨日は朝からメダカ捕りに出かけました。メダカと思しき魚影が群れですばしっこく一斉に方向を変えて泳いでいました。やや幅が広い用水路を縦横無尽に逃げ回られたらとても捕れたものではありません。すると草刈り機を自転車に載せて通りがかったおじさんがもっと狭い水路に行かないと捕れないと教えてくれました。ついでに国道の向こうはマムシが出るので危ない、こちら側で捕ることも。なるほどと幅数十センチの水路に行くと所々油膜が浮いたり泡立っていたりと汚水っぽい。こんなところにメダカがいるのだろうかと水路に沿って歩いてよく見るといました。かといって簡単に捕れるものではありません。メダカたちが方向を変えるその先にタモを入れるなど何回か試していたら1匹2匹と捕れるようになりました。ときには1回で最高20匹も捕れて子どもの頃の興奮を味わっているようでした。捕れたメダカはバケツからビニール袋に移し替えて口を縛って持って帰りました。途中、メダカを触って生臭くなった手をコンビニの洗面所で洗い、釣課というか成果ありとアイスクリームを食べて一息つきました。自宅には朝から洗って水を張ったメダカ鉢が用意してあります。帰宅して早速移し替えようとしたらビニール袋の底に何匹か動かない魚がいました。メダカではない魚です。横から見るとメダカではありません。中には底に横たりながらエラが動いている個体もありました。夕方にはその魚は全部死にました。1/3はメダカではなかったことになります。メダカも2匹死にましたがおよそ30匹が鉢の中を元気に泳いでいます。教室では10匹くらい飼うことにしています。文字通り生きた教材です。

田畑の中にたった2日、数時間いただけでしたが思いのほかリフレッシュしました。田んぼで田植えが終わって細い稲が風で揺れていました。米不足が大きな社会問題となっていますが、米作りを支えている農家の人たちの知恵と努力のすごさを思い知る機会となりました。米を作りたいだけ作って売りたいところに売るという障害者の権利とも相通じる個人の意思の尊重がどれだけ守られているのかと思いを巡らせました。

2025/04/13

フランスを思うとき、再び

6月に子どもと少子化にかかわる話題提供をすることになってその準備をしています。大正新教育の文献を調べていて多産多死といわれた頃の子どもの死に対する親や教師の感情にかかる記述、つまり、心性を視野に入れることで現在の少子化の中の子どもを考えていきたいという趣旨です。これまでに目に留まったところを拾い出したりあらたな文献に目を通しています。

そうした文献の中でとりわけ面白いのは北本正章著『子ども観と教育の歴史図像学 新しい子ども学の基礎理論のために』(新曜社 2021)です。後注を入れて500ページ余もありますがこの週末でほぼ目を通してしまいました。西洋の絵画に描かれた子ども、シャボン玉と子どもが描かれた絵画を手掛かりに考察するくだりはとにかく興味深い。小林敏明著『風景の無意識 ― C・D・フリードリッヒ論』(作品社 2014)もそうですが、絵画が示され論が展開されることで論だけでなく心が動いて理解がぐっと深まるように思います。私の話題提供の内容については今日ここで云々する段階ではありませんが、「子ども観」「子ども」についてのフランス人学者のかかわりのところで目が釘付けになりました。

子ども学研究の基本カテゴリーを再構成する上で欠かせない方法論的視点は、「子ども」が歴史概念であるという発見から導かれる。柄谷行人が鋭く指摘したように、歴史概念は時間の経過によって生成し、変容するなかで「発見」されることが多い。「野生」(未開人)の発見はベルギー生まれてのフランスの構造人類学者クロード・レヴィ=ストロースによって、「狂気」(狂人)の発見はフランスの哲学者ミシェル・フーコーによって、そして、「子ども期」(子ども)の発見はアリエスによって、それぞれなされた。これらは二〇世紀の学界における三大発見といわれる(中村雄二郎)が、そこに共通するのは、いずれもフランス人学者によること、それぞれの専門分野である人類学、哲学、歴史学において、それまでの伝統的な思惟様式を覆したことであろう。概念はつねに歴史変容を迫られ、古い層に沈殿して堆積し、新しい層が表面に浮遊する。思想や文化概念のこのような積層を考古学的にたどる方法の点でも、三者は共通していた。

この本の初刊は2021年と新しい。サブタイトルの「新しい子ども学の基礎理論のために」は、当然ですが、この本の現在地を明確に示しているといえます。

2025/03/27

フランスを思うとき

 今朝、NHKのニュースで「仏大学などが米研究者を受け入れへ トランプ政権の予算削減でで」が流れて出勤の支度の手を止めました。環境問題などの研究予算を削減や廃止するというトランプ政権の動向を伝えるニュースが気になっていたのでフランスの大学のこうした対応に賛辞を送りたくなりました。これはアメリカにとって頭脳流出であり、そう遠くない日に少なからず慌てることになるのではないかと思います。翻って日本はというと大学の予算も研究の自由も低下の途上であり文字通り対照的といえるのではないか。「フランスにおいて研究者の自由は重要な価値観だ」と述べるサントラル・シュペレックのロマン・スベラン事務局長の言葉は力強く響く。2017年6月24日の大谷大学の3学部化シンポジウムでの鷲田清一の講演「Be Real ― 学ぶべきこと、意味 ―」も然りでした。

フランスの歴代の大統領が学ぶ国立行政院では行政学と哲学の修士論文が課せられる。どうして行政の専門家になる人に哲学の修士論文を課するのかと問うと「例えば、幸福とは何だろうと考えたことのない人がエリートになって国の行政を行う、ひとりでも多くの人が幸福と思える社会をつくる仕事に就く、幸福ということを考えた人に任せたら危ないではないか」と返ってきた。

このエピソードはフランスの歴史に流れる通奏低音のような哲学を示唆していると思います。今回のアメリカの研究者受け入れはこうした哲学の現れといえるのではないか。噛み締めるように受け止めました。

下鴨納涼古本まつり

  京都下鴨神社薫の糺の森が会場の下鴨納涼古本まつりに行ってきました。古本まつりなるものに行ったのは初めてで、しかも神社の境内なので見るものすべてが新鮮でとても面白かったです。この古本まつりを知ったのは県内の古書店のインスタグラムです。時間ができたので思い立って行った次第です。小...