2019/05/19

教育の現象学的アプローチ

週末の金曜日と土曜日はいわゆる連荘で飲み会でした。金曜日は某事務局の集まりで多くは退職者でした。昨夜はある研究会の親睦会でした。そこで続けて思いがけない話の展開があって酔いが醒めるほど驚きました。金曜日は伊藤亜紗さんの著書について、昨夜は教育を現象学的に捉えることから話が広がってシュタイナーの名前が飛び出したことでした。

ここ何か月か教育を現象学的に研究することを考えていて、やっと自分の言葉として使っていけそうな文脈がわかりかけたばかりです。勉強すればするほどわからないことが増えてきて難しさは深くなってきています。一つひとつの言葉の意味や解釈にエネルギーを費やします。今は「生成」ですが、この言葉がある程度自分なりに使えるようになることで今進めていることの見通しがかなり掴めるのではないかと考えています。こうした営みは難しいけど面白い。面白いけど難しい。夢中になってしまう。

今にして思えばいつの頃からか教育から哲学的なアプローチの影が薄くなってしまいました。教育学における現象学的アプローチも然りと思います。関連する書籍はここ数ヵ月たらずで100冊超集めましたが何百冊もあるわけではありません。3月に国立国会図書館を訪れたとき文献を探しましたが概観程度とはいえ何度かの複写もして1日で終わりました。現象学は最も注目されている哲学の一分野のはずなのにこの絶対数の少なさはどういうことかと訝しく思っています。そんな中で冒頭に記した週末の出来事に驚きつつも心強く思いました。

ここで多くを書くにはまだまだ勉強が足りませんが、次世代の先生方に伝えるべき教育の「極意」は教育を現象学的に研究することでそれなりに明らかになるのではないかと考えます。「極意」を伝えることはたいへん難しいのですが、現象学的な研究に触れることで心に響くものがあるはずと予感があります。講義まであと2か月、どこまで詰めることができるかです。

2019/04/01

映画「ボヘミアンラプソディ」

先日、映画「ボヘミアンラプソディー」を観ました。クィーンをホールやシアターで大音量で聴いたことがなかったので音のクオリティにまず驚きました。そして、クィーンが安泰に甘んじることなく常に新しい音楽を求めて止まなかったこと、あと、やっぱりロックは小難しい音楽だとあらためて感じたことが発見でした。

クィーンがなぜ新しい音楽を追い求め続けたのか、そもそもそういうメンバーが集まったからと、そう言ってしまえばそこで終わりであって核心のところは見えない。もちろん簡単にわかるはずもない。でも、クィーンを聴くたびにそうしたひっかかりがよぎるのはその音楽の中にたしかに何かが、彼らの中に何かがあるから何度も聴き入ってしまうのだろう。彼らはなぜそんなにもクリエイティブ志向だったのか。注ぎ込んだエネルギーは計り知れない。人を突き動かすものは一体何なのか。映画に流れる音楽も似たものはひとつもなかった。

ロックというカテゴリーの音楽を聴いていると堅苦しさを感じることがあります。映画の中のクィーンの音楽も然りでした。クラシック音楽のような構造とどこか共通するところがあるように思います。音楽がきちんと機能するべくがっちり構築された構造物として音楽が迫ってくるような感じとでもいうのだろうか。ギタリストがヴィヴァルディの「春」やパッヘルベルの「カノン」をエレキギターで弾く動画はYouTubeで何本かアップされています。ベートーヴェンのピアノソナタの「悲愴」や「月光」もギタリストの琴線に響くようだ。ロックはパンクなど多くの派生を展開していきますが当の本人たちはそのわずかなちがいにこだわると聞いたことがあります。「音楽性のちがい」と表現されるところだろうか。その堅苦しさは、でも、私にとっては心地よさでもあります。だから聴く。

ロックはライブがいちばんだと思っています。音はその周波数にふさわしい空気の振動に乗ることで一段と美しく力強く伝わる。YMOも加藤和彦もライブで聴いたのは40年も前のことですがそのときの感覚は身体が覚えている。映画「ボヘミアンラプソディー」はライブではありませんが音質のよさは堪能できるものでした。もちろんフレディーの歌は最高でした。

2019/03/28

バイク談義

昨日は所用で出かけるときにバイクで行きました。週末の天気があやしくなってきて計画しているツーリングに行けなかったらバイクに乗るのはいつになるだろうと思ってのことです。天気もよく気温も高い。春秋用のジャケットとグローブ、そして厚手のジーンズというスタイルです。そのelfのジャケットは私の体にぴっちりとフィットしています。バイクに跨ると腕も細身なのでミラーで後ろが確認しやすい。走りだすと冬用のジャケットに比べて受ける風が少ないばかりか抵抗が少なくて風が滑らかに流れていく感じがしてそれがとても気持ちのいいものでした。バイクが軽く感じられるし信号待ちなどで止まると左足がべったりの足つきでした。こんなに足つきがよかったのだろうか!?と不思議に思うほどでした。

先日、大阪モーターサイクルショーでスズキのキャップを購入して早速かぶっていたら同じテーブルの私より少し若い男の人から「スズキに乗っているんですか?」と声がかかりました。それから小一時間、バイク談義となって他の話題も含めて興味深く聴かせていただきました。鈴鹿サーキットの第一コーナーで「スピード落とせ」と無線で何度も言われて何だろうと思っていたらそのまま砂利に突っ込んでマシンをダメにしてめちゃくちゃ叱られた、コースに出ると自分が今どこを走っているかわからない、コーナーが多い6キロの鈴鹿はコースを覚えるだけでもたいへんでバカは走れない、等々。私はバイクはバイクでも自転車のロードレーサーで鈴鹿サーキットのコースを走ったことがあってそれはよくわかりました。コーナーの底から見るコースは「壁」のように聳えていて、コース取りを云々するはるか前段階で迷子になっているようでした。ただ走るだけでも難しい。そのコースで自分とマシンのポテンシャルをリアルタイムで最大限コントロールするのは至難の業だ。8耐にメカニックとして参戦したこともあるというその男の人は身振り手振りもなく静かに語りました。彼のiPhoneにはかつて乗ったというマシン写真が保存してあって見せてくれました。今はスクーターを所有するのみとのことでしたが8耐は観戦されるとのことで「鈴鹿で会いましょう」と名前も連絡先もお互い聞かずに別れました。

2019/03/18

年度末に思う

今日で今年度の非常勤講師の仕事がすべて終わりました。私は特別支援学校小学部の初任者指導と2つのクラスに補充で入りました。もしかするとここで子どもたちとこうして過ごすのは最後になるかもしれないと思うとこの1年間そこで過ごした時間が凝縮されて手を伸ばせばそこにあるような実体感が感じられました。そこ、とは記憶の中ですが不思議なくらい鮮明です。学校の先生たちはこうした経験を数えきれないほど積み重ねているのだと今更ながら気づきました。自分の経験として身体での気づきです。定年退職まで37年間教職に就いてきてこれまでそんなことはなかったのかと問われるともちろんあったわけですが、退職までの13年間は管理職や行政職だったので教育の最前線での経験からは距離がありました。それゆえかこの1年間はことさら鮮明に意識できるものであったわけです。ちがうのはこの1年間はそうした経験を意識して言語化してきたことにあります。授業について、1時間1時間の授業の中での子どもについて、その子どもと先生について、そこにいる私が知覚したことについて、ときに補充で入ったときひとりの先生として自分が知覚したことについてとにかく言語化しようとしてきました。初任者には自分の言葉で語ってもらう。そうして授業について毎回新たな言葉を発して初任者と対話すること、その積み重ねが自分の言葉で語ることができる先生を育てる。年度末の研究授業の授業案の作成はとても面白いものでした。言葉を知らなければわからないことはたくさんある。語る言葉を知らないということは世界で浮遊しているようなものだ。もちろん「語る」とは音声言語を発することに限らない。先人たちの書き物や語りの文字起こし等々にふれて「言葉を知る」「自分の言葉をもつ」「言語化する」トレーニングを積み重ねることで人は「自分の世界」と「世界の中での自分」を見いだす。これだけではないのですがこの1年間を経て「脳の再起動」ができたのではないかと思えるようになってきました。OSのバージョンアップは今後の自分の努力次第です。しなければならないことはたくさんありますが、この1年間子どもたちや学校の先生たちとともに学ぶことができたことを感謝し、子どもたちの健やかな成長を心から願うばかりです。

2019/03/12

痕跡本

2月2日に長野県伊那市立伊那小学校の研究会に参加してから細い糸を手繰り寄せるようにして本を集めることになっています。短期間に40冊超の本が次々と届くとまるで古本屋のようで、気になるところを拾い読みしては硫酸紙(グラシン紙)を掛けるなどしています。カテゴリーは教育学、心理学、哲学、看護学で中には貴重なものも何冊かあります。貴重と思っているのは私くらいかもしれませんがまるで投機目的かと思うくらいの高値がついていることがあります。その間隙をぬってお目当ての本をほどほどの値段で買い求めるのもスリルがあって面白いものです。

そのほとんどが今では新本で出回っていない古書なので中には個人や大学図書館の蔵書印や書き込み、著者のサインがあったり、また、献呈の栞などが入っていたりとこれはこれでいろんな想像を巡らせてしまいます。時には私信が入っていて驚いたことがありました。こうした場合“現状”で販売するのが古書業界の習わしなのだろうか。私は本は売らない主義ですが貸すことがあるので気をつけないといけません。

今日は「上田薫著作集」の収録リストを作りました。収録してある本を重複して購入してしまったのでその予防策です。全集ものなので月報が入っています。著者の教えを受けた人たちが出会いなどの思い出や業績について綴っています。「上田薫著作集」では毎回4~5人、計66人が執筆しています。こうして著者を知る人たちのそれぞれのかかわりでもって語られる人物像はそれぞれの執筆者のもので、著書では知ることのできない姿がそうして鏡に映るようにして浮かび上がるのはとても興味深いものだ。上田教育学はそう遠くないうちにもっと光が当てられ研究されるときが訪れることと思います。

2019/03/07

心躍る経験がある授業

ここしばらく確定申告の説明会のスライド資料を見ていたのですがさっぱりわからないので自分なりに国税庁などのサイトを見て申告書のフォーマットに数字を打ち込みを始めました。すると全体像がわかってきてほどなく一段落しました。パソコンの個々の処理画面が並ぶ資料は単に詳しいだけでは「木を見て森を見ない」状態に陥ってしまいます。木も森も見てふわっとしたところから意味や構造を見つけていくのはこんなことでも楽しい。それはとても感覚的だ。

確定申告の前は初任者研修で担当している特別支援学校の先生の研究授業の準備に自分がどっぷりはまっていました。指導案は授業者の意図が記述されているはずですがどこまで書き切っているといえるのか。そこで使われている言葉は授業者の言葉なのか。子どもたち一人ひとりの姿が素のまま浮かんできているだろうか。子どもが生き生きと描かれているだろうか。そもそも授業の意味について授業者は自分が納得できる言葉を持っているのだろうか。こうして書くと問い詰めているようですが授業準備はとても面白いものでした。目の前で起こっているのはどういうことなのだろう、これは何なのだろうと言葉を見つけていく作業でした。このプロセスは多分に現象学の発想が生きているように思っています。「現象記述」「現象学的還元」「想像自由変容」から「本質直観」という現象学の研究方法(吉田)のほんの真似事であったとしても一定の手応えがあったと考えています。今回のキーワードをひとつ取り上げるならそれは「心躍る」です。授業で子どもも先生も「楽しさ」を通り抜けて「心躍る」経験を生きてほしいと願いを込めました。

2019/02/12

教育と哲学

上田薫著「沈まざる未来を 人間と教育の論に歌と詩と句「冬雲」を加えて」(春風社 2008)が届きました。フリマサイトで見つけた本で著者のサイン入りとのことでしたが言葉も添えてありました。「枯れ野といへど反骨あたたむる 薫」です。これが目に入った瞬間に私の中で何かが崩れたような感覚に襲われました。そうか、こんな世界があったのだと細いペンで書かれた流れるような文字を何度も辿りました。出版は2008年、御年88歳のときの本です。日本社会のみならず世界への警鐘が緻密な言葉の連なりでこれでもかというくらいに書き込まれている。鬼気迫る筆致だ。帯の背の著者名の横には「思想の集大成」とあり、表紙のところの帯には「教育の世界に身を投じ、ひたすら新しい地平をひらこうとしてきた著者の「最後の」著書。珠玉のエッセイに加え、未発表の短歌・詩・俳句が“上田教育学”の真髄を伝える。」とある。ただただすごい本だ。心して読まないと活字の中に引きずり込まれそうな気がして今日はあちこちを拾い読みするだけにしました。それでも至るところで目が釘付けになりました。

「教育の問題に実践に即して深入りして一生が尽きようとしているが、私本来の道が哲学であることに変わりはない。いや教育の追究もその道の上にあったのである。」(2003)

ヨーロッパをはじめとして大学では教育は哲学の中の一分野でしたが今はそのことがすぐには頷けないような様相が前面にあるといえるでしょう。哲学とまではいなかくても教育は社会科学の一分野のはずですが今や「実学」として扱う内容がすぐに役に立つか立たないか、「役立つ」人材を育てることができるかという視点で云々されることが多い。だが人間ははるかに複雑だ。敷かれた線路の上を仕組まれた時刻表通りに進むようなものでは決してない。「答えはひとつではない」ことが広く認識されている今日、教育こそ哲学の視座から問われ続けることが必須ではないか。

大谷大学3学部化記念シンポジウム(20170624)のテーマは「Be Real ― 学ぶべきこと、意味 ―」で、基調講演2の講師は鷲田清一氏でした。その中で紹介されたフランスのエピソードを時々思い出します。

「フランスの行政官を養成する国立行政学院では、行政学とともに、例えば幸福について考える哲学の論文を書く必要があると聞きます。幸福とは何かを深く考えたことのない人に行政を任せるのは危険、という考えからです。日本の教育は当たり前のことをやっていないと思いました。 」(大谷大学ウェブサイトより)

また、本シンポジウムの課題意識については案内に「「即戦力」人材教育が叫ばれる現代社会。いわゆる実学系の教育・研究機関への期待度が高まるなか、宗教・哲学・思想することの意味はどこにあるのでしょうか。本シンポジウムでは、人文科学系の大学・学部ならではの学びについて考えていきます。」とあります。私は今こそ哲学、哲学的思考がきわめて大事だと考えます。私自身その学びの緒についたばかりですが…

2019/02/09

DIY

今日は思いがけなくホンダのスーパーカブ110のリアキャリアに純正のビジネスボックスを取り付けるということになりました。パソコンの自作やバイクのマフラー交換など面白くてたまらない性格なので引き受けたまでですが、いざ取り付けようとすると情報があまりに少ないことがわかりました。ボックスの底に開ける穴のポイントがやたらたくさんあって取付金具をどう使うのかもわからない。ネットで調べるとホンダのウェブサイトからマニュアルをダウンロードするとか。URLを打ち込むと販売店用と思しきサイトでした。そこでマニュアルを探すと一目瞭然のPDFファイルが見つかりました。目の前の霧が晴れたように手順がわかりました。ところが指定のドリルの先端パーツがなかったりキャリアの面から低いところのボルトを外す工具がなかったりでホームセンターまで調達に行くことになりました。そうして準備が整ったら作業は順調に進んで手前味噌ながらきれいに仕上がってご満悦の気分でした。工具に注ぎ込まれたノウハウは数値ばかりでないと思いました。

DIYということではチェーンソーの準備をしています。かなり危険と認識しているので防護服などもそろえる予定です。いろいろ調べていくと林業の文化や醍醐味が分かってきました。必要以上のことはしないつもりですが冬になると今年も薪ストーブが気になって仕方がない。信州でたくさん見かけた薪ストーブと思しき煙突から白く立ち上る煙は心が温まるような風景でした。

2019/02/08

伊那小学校の公開研究会の余韻とその増幅

暦通り節分を節目に立春を迎えたようです。空は明るさを増し、雨は乾燥した大地に春を迎えるための水分をしみこませます。この寒気も春に向かう自然の躍動を感じさせます。

先週の土曜日、長野県伊那市立伊那小学校の公開研究会に行ってきました。正確には「公開学習指導研究会」です。このときの余韻で1週間が過ぎました。この先もその余韻は通奏低音のように続くことと思いますが、すでにあらたな要素が加わって増幅されてきています。

今回で40回目とのことです。40年前というと昭和53年度、1978年が第1回ということになるでしょうか。大学の附属学校でも公開研究会は隔年というところがある中で公立の小学校が40年にわたってこうした研究会を行っていること自体に注目していまいます。「こうした研究会」というのは研究内容が総合学習ゆえになおさらです。伊那小学校は総合学習を学びの柱とし、子どもたちが山羊を飼っていたりチャイムやテスト、通知表がなかったりという特色で知られてきました。現在はちがってきているところもありますが、総合学習の取り組みを継続しているところから広く注目され、今回も600人を超える参加者があったとのことです。前述のような特色は注目の的となりやすいものの、保護者、地域の理解がなかったら成し得ない取り組みです。そこが信州の教育たる所以だと思いますが、こうした取り組みがどんな言葉で共有されているのか、そこが私のいちばんの関心事でした。

研究紀要の冒頭に信州大学の畔上一康先生が「伊那小学校の実践が問いかけることと」と題して「「総合」の思想と歩み」等々について説明をされています。「学力」第一で回っているかのような現在の学校教育の中で、しかし、畔上先生のこの文章はもっとも今日的な課題への提言であるように私は読んでしまいます。乱暴な言い方ですが、来るべきフェーズの学校教育について考え、論じようとするとき、こうした教育の思想や方法論に立ち返ることが欠かせないと考えます。そのためには畔上先生が最後に触れているヴァスデヴィ・レディの「二人称的アプローチ」のような二元論とは異なる視座が必須となるのではないか。(二人称的アプローチは他に佐伯胖先生の著書「「子どもがケアする世界」をケアする 保育における「二人称的アプローチ」」(ミネルヴァ書房 2017)に詳しい)

当日の「販売書籍・資料 リスト」から「三枝孝弘先生論文口述集」と「伊那小学校百年史」を買い求めました。前者は「本校の研究の創成期の指導者三枝孝弘先生の論文をまとめたもの」、後者は「総合学習・総合活動の創成期のことや、通知表のないわけなど伊那小学校の歴史をまとめたもの」とのことです。2冊とも拾い読み程度ですが、「三枝孝弘先生論文口述集」では冒頭の昭和54年の公開講演記録のテーマが「実存としての教育」とあって哲学のフィールドとの重なりなど興味津々です。早速、三枝孝弘編「学校と教育方法」(講談社 1981)を取り寄せました。そこから上田薫氏の著書へとつながってこの先はどこに向かうのか。上田薫氏は西田幾多郎氏のお孫さんとか。「上田薫著作集」などを取り寄せ中です。入り口はちがっても自分の関心の向かう先に現象学が見えるようになってきています。もちろんこれは私の慧眼ではない。時代、社会状況が求めているとは決して言い過ぎではないでしょう。

今回の信州行はホテルと伊那小学校を訪れただけでした。伊那小学校には朝8時前から夕方4時半過ぎまで9時間近くも滞在したことになりますがあっという間に1日が過ぎてしまいました。雪が残る中、自分たちで建てた山羊小屋を囲む柵の中で山羊といっしょに始まった1年生の朝の会の光景は記憶に刻まれています。「〇〇くーん」「〇〇ちゃーん」と子どもたちの名前(ファーストネーム)を呼ぶ若い女性の先生と「はーい」と応える子どもたち。中には柵によじ登ったまま返事をする子どももいました。教育の原風景を見た思いがしたというのも言い過ぎではないと思います。

アイキャッチ画像は伊那小学校の朝の空です。

今週はこれまた刺激的なNHK「100分de名著 オルテガ “大衆の反逆”」が始まりました。

2019/01/29

底冷えの冬の日に

1月から2月のはじめにかけて気温は「底」となります。毎年の繰り返しのはずですがそのときにならないとその寒さはなかなか思い出せない。今、まさにその真っ只中です。そして思い出したのは寒さも暑さと同じように体力を奪うということです。身をもってわかるといういい方ができるでしょうか。ふだん自宅では薄手のダウンジャケットを来ていますが水仕事で同じダウンでもベストに着替えるとほどなく腕が痛みを感じるようになってきます。そして眠さです。睡魔というより一種の防衛反応のような眠さと思います。できるだけエネルギーを使わないように眠る。もしかしたら冬眠とはこのような感覚なのだろうか。でも、寒さは嫌いではありません。きちんと防寒対策をして凛とした冷たい大気の中を歩く心地よさはなんともいえない。

今日は松葉祥一・西村ユミ編集「現象学的看護研究 理論と分析の実際」(医学書院 2014)を最初から読み直し始めました。「自然科学的な研究は、われわれの経験の中から、意識的に行った行動や重要だと思われる要素だけを取り出して、空間座標や時間軸といった客観的指標にあわせて再構築し、残りの部分は捨てる、あるいはフッサールの言い方では隠してしまう。現象学的研究が求めるのは、そうした抽象化を行う前の「生きられた経験」にたち帰ることなのである。」(松葉)なんとすんなりと入ってくる言葉か! 勉強しなければならないことのなんと膨大なことか!

パール・バック『母よ嘆くなかれ』

音楽療法の研修資料で前に作成したスライドからパール・バックの引用を使うことにしました。ポール・ノードフ、 クライブ・ロビンズ著、望月 薫訳『障害児教育におけるグループ音楽療法』(人間と歴史社 1998) に寄せたパール・バックの「序」の一部です。 遅滞のある、ゆっくりと考える人た...