2026/01/18

藤田美実 「内なる世界」と「外なる世界」 再び

私が藤田美実の著書を初めて手にしたのは『信州教育の系譜 上・下』(北樹出版 1989)でした。広く信州の教育について資料を集めていた中にありました。あるとき読み始めると惹きこまれてしまい何度も繰り返し読んで今日に至っています。『明治的人間像 木下尚江・赤羽巌穴・手塚縫蔵』(筑摩書房 1968/S43)も然りでした。とりわけ手塚縫蔵について書かれたところが私の心を捉えて離しませんでした。手塚縫蔵の章末はにわかに哲学書然とした筆致になります。先日、このことについて著者が触れている文章を読んでその真意を知ることになりました。その『信濃教育』第1020号 特集 手塚縫蔵先生 昭和44年11月号から引用します。

手塚縫蔵逝いてこの八月で満十七年、一つの精神共同体である信濃教育会にとって、彼の名はすでに古典である。古典は批判を許さない。彼における「外なる世界」を云々し、これをあげつらうのは無意味である。今日の教育者たるものは、彼における「存在」の語の真諦を味得すれば足りる。(はたして人はそれを味得しているだろうか。私は「存在」の一語を中心概念として『明治的人間像』一巻を書いたつもりだが、朝日新聞や読書新聞の書評も、信毎や『信濃教育』のそれも、その核心には一言もふれていない。批評家なんてのんきなものだとつくづく思う。)しかもなお私が彼における「外なる世界」を云々するのは、一つには信濃教育会がこのような古典的リベラリズムに安住しているのではないかという危惧(祀憂であれば幸いである)を感ずるからでもあるが、一つには「内なる世界」と「外なる世界」とがどうしても総合されないという、まさに日本的なこの現象をつきつめて考え、この矛盾をトコトンまで苦しまなければ日本は近代化されないと思うからであり、そこに木下尚江や山本飼山を回想することの意味もある。そしてまた私は田中正造の名前を回想している。今春私は栃木県佐野の近傍に彼の生家や終焉の地をたずね、そこの農民たちと語る機会を得たが、彼らがいまなお敬慕の情をこめて田中正造の名を口にするのを聞くとき、強く心打たれる思いがした。田中正造は内において深い罪の自覚と人間愛にささえられながら、死の床につく最後の日まで農民たちのために戦うことをやめなかった。彼においては「内なる世界」と「外なる世界」とが、なんの矛盾もなく、まことに奇妙に調和している、その稀有な人間性の不可思議さを私は言いたいのである。(『信濃教育』第1020号 特集 手塚縫蔵先生 昭和44年11月号)

私も『明治的人間像』を読んで「存在」という言葉に込められた著者の真意を十分に読み取ることはできませんでした。読み進めるなかで手塚縫蔵の章の記述のもどかしさのようなものは何なのだろうと訝しく思っていましたが、その核心が手塚縫蔵の「存在」にかかる著者の思索であったことがわかりました。

<補足>

藤田美実は19歳で大学の哲学科に入学しましたが「1年で大学がいやになり、翌年休学して信州の田舎の小学校の代用教員になりましたが、その校長が手塚縫蔵というドエライ人間で、彼から圧倒的な影響を受けました」と晩年のエッセイ『余滴』(私家版1992)に書いています。昭和35年(1935年)、片丘小学校でのことと思われます。以下、同書からの引用です。

 人間存在、即ち「私がある」、きわめて簡単な言葉ですが、実はそれは至難の業なのです。わが身に鞭うつような、きびしい罪の自覚(自己否定)がなければ人間は存在し得ません。

 私が学生時代に信州の小学校の代用教員をやり、校長の手塚縫蔵に会った話は既に致しました。私は彼において存在する人間の荘厳ともいうべき姿をかいま見たのでした。彼の日記には素晴しい言葉がたくさんありますが、特に「淡如として事なし 事なきは事ある也 存在は大事業なり 懼れ慎しむべし」*という言葉は私の最も好きな言葉です。

*(「日誌」昭八・九・一九)存在するということは生涯をかけての大事業である。手塚の「存在」は、不作意にみえて作意、自然にみえて必死の精進努力の結果であった。

(藤田美実「手塚縫蔵に関する断章―キリスト教の日本的受容―」(『明治大学教養論集』20110118))


比叡山登山

昨日、比叡山を登ってきました。ルートは日吉大社脇の石段から延暦寺に至る表道です。整備された登山道で一時積もった雪も溶けたとのことで靴は思い切ってコロンビアのセイバーミッドで登ることにしました。2年前に白駒の池の遊歩道で雪で滑って右足首を骨折してからというもの山行は常にモンベルの総革アルパインクルーザー、ハイカットで足首を固めるスタイルでした。ミッドカットでの登山はどんなものかと戦々恐々でした。一足毎に地面を確かめながら慎重にスタートしました。結果、何の不具合もなく登り切ることができてほっとしました。これは大きな収穫です。何よりも自分の足への不安がかなり解消しました。違和感は残っているので無理はできませんが軽快な靴でもっと歩いたり登山をしたりしたいと思います。


比叡山は車で訪れたことはありますが自分の足で登ったのは初めてで面白かったです。駐車場や登山口までのアプローチ、坂本の町の歴史的建造物や町並みから始まってかつては車が通っていたという登山道の荒れた姿、垣間見える琵琶湖など新鮮でした。また、地元の人と思しき高齢の男性との会話も興味深いものでした。赤い洋傘の先っぽをザックから突っ立てていました。地蔵さんの掃除などをしているとのことでした。表道1時間半というコースタイムは地元の人たちにとっては週末の山歩きにちょうどよいのでしょう。

延暦寺についてまず鶴㐂そばで昼食としました。登山で汗をかくほどだったので冷たい門前そばが美味しく胃にやさしく思えました。延暦寺は根本中堂の改修工事がなんと30年まで続くとのことで工事の見学となりました。屋根の細工や梁の極彩色の絵が近くで見ることができてこれはこれで面白いものでした。お香を買い求めて延暦寺を後にしました。

下山は予定通りケーブルカーとしました。屋上の展望台で景色を見ていたら乗車が始まっていて車両のいちばん後ろ、高いところのドア前の通路で立ったままとなりました。でも、車両のすべての窓からの風景を見ることができて堪能しました。ごとごとと揺れながらゆっくり進むケーブルカーは少し怖くもあり登山の疲れはいつしか忘れてしまいました。

思い返すと昨年末から訪れた山は半分は観光でした。八幡山、多度山、そして比叡山です。それぞれに史跡や社寺があり、登山を地元の人たちに親しまれている山です。体力的にも余裕がある山行でリフレッシュしました。

2026/01/11

枯れた花

 いつだったかNHKのテレビで京都の花を巡る創作家2人を紹介している番組を観ました。ひとりは日本画を描く女性、もうひとりは枯れた花の写真を撮る男性でした。日本画はすんなりと目に入ってきたのですが枯れた花の写真は目が釘付けになりました。わざわざ枯れた花を撮るのはどうしてなのか、すぐにはわかりませんでした。花づくりをしていると見頃を過ぎた花、花殻はどんどん取って捨ててしまいます。チューリップは花が盛りを過ぎると球根に栄養が貯まるように首をちょん切ってしまいます。でも、その枯れた花の写真を撮るのです。

この秋も終わる頃、玄関先のポットに植えたアンネのバラが一輪咲きました。アンネのバラは明るいオレンジ色で咲き始めてだんだん赤みが増して濃いオレンジで花が終わります。その色の変化がきれいです。そして、いよいよ萎れ始めると花びらは縮れて色は茶色に変わります。花びらは薄くなります。その変化がとても美しく感じられて毎日しっかり見るようになりました。でも、ちょうど忙しい時期だったので写真はスマホで撮っただけでした。

萎れて枯れたアンネのバラの佇まいはNHKの番組で紹介された写真家が撮った花を彷彿とさせました。その写真家を知りたいとネットで探しましたが情報はありませんでしたが、田島一成が枯れた花の写真集『WITHERED FLOWERS』(Akio Nagasawa Publishing 2020)を上梓していることを知りました。限定900部で入手は難しいと思いましたが1冊だけ見つけて取り寄せました。色調は紫が基調で萎えた花びらが重なって縮こまる姿は存在感がありました。これまで次から次へと花が咲き続けるように盛りを過ぎた花を摘んでばかりでした。散る桜もピンク色だからこそ注目されますが枯れた花や枯れゆく花もこれまで多くの人たちがその姿に思いを重ねてきたはずです。枯れた花と巡る人たちの営みにも気持ちを向けていきたい。


2026/01/04

レヴォーグ

この年末年始の休みは曜日の関係で9連休でした。恒例の掃除などの他にレヴォーグの納車や年始ツーリングがあってときめく休みとなりました。

レヴォーグは初のフルタイム四駆で積雪期でないと本領発揮はできないのですがビルシュタインのサスペンションも相俟ってか不思議な走りをします。急加速急ブレーキはしていませんが姿勢を変えずに加速して止まるのは分かります。シートのホールドも心地よく加速や減速、わずかな方向の変化など挙動が掴みやすい。アテンザもそうでしたが直進するだけで身体がすっきりするような感覚になります。ペダルも踏んだら踏んだだけ、踏む速さだけきちんと応答して気持ちがいい。高速道路での追従コントロールをはじめ衝突軽減ブレーキがあるのは大きな安心です。ボディカラーのピュアレッドは乗り込むたびにリフレッシュしていいものです。

レヴォーグは岐阜まで受け取りに行ったのですが下取りのオデッセイは夏タイヤで査定してもらったので1週間でスタッドレスから戻すことになりました。レヴォーグのスタッドレスは付いていたのですが後日送付となって昨日届きました。届いてわかったのはインチダウンだったことです。さて、どうするか。標準の18インチのホイールはブロンズのアルミを用意してあるのでタイヤだけ調達するだけで賄えます。何しろ付いていたスタッドレスは16年製造なので限界は明らか。一度そのセットに交換して走って決めるのが賢明なのでしょう。それにはロックナットを外さないと…

<追記>2026.1.6

ロックナットは地元のスバルで外していただきました。ロックナットは記念に手元においておきたくて持って帰りました。どうやって外したのかわからないのですがナットに無理な力がかかった形跡は見つけることができません。要した時間は実質十数分といったところだったと思います。

さて、楽しみにしていた(と過去形です)18インチのブロンズのホイールは、何と!17インチであることがわかりました。よく見ると17インチで出品されていました。レヴォーグVmに使っていたとの説明でサイズまで気が回らず、色と程度、値段に目がくらんでしまっていました。先日届いたスタッドレスタイヤホイールセットも17インチでタイヤは215/50R17です。今着いている夏タイヤは225/45R18です。どちらも「適合」です。どうしたものかと悶々と考えています。50の方が「乗り心地」は良いはずで、このことは今後メリットの方が大きいのではないかと思い巡らせています。今の225/45R18を乗りつぶした後ブロンズのホイールに新たに215/50R17のタイヤを着けてスタッドレスは今の17インチのホイールを続けて使うというのものです。経済的にもそれが最善の選択です。急ぐことはないので17インチのスタッドレスを試したい。

<追記>2026.1.11

スタッドレスタイヤに交換しました。製造年こそ2016年ですがよく見るとそこそこ行けそうに思いました。ホイールは純正ではありませんがスポークが放射状に広がるデザインなのでサイズ以上にタイヤサイズが大きく見えて気に入りました。扁平率は50ですが45と比べてちがいはわからないほどで、むしろスタッドレスタイヤのブロックパターンの方が目につきます。総じて急いで別途調達することはないという判断に落ち着きました。走りはスタッドレスタイヤ然としたものでソフトでブロックパターンの接地音が「コー」と聞こえてきます。タイヤを外したら黄色のビルシュタインのショックが見えたので写真を撮っておきました。

2025/12/14

春の花考

 今季は玄関先の春の花の苗を植える時期を逸してしまい、やっと買い求めた苗も2週間そのままで弱ってしまってポットに植えら水やりもままならない日が続いて半分が萎えてしまいまいした。かわいそうなことをしたものです。昨日、弱った苗を別のポットに植え替えてメインのポットには新たに買い求めた苗を植えました。

春の花はしばらく明るい黄色のビオラと決めて20年くらい植えてきました。昨年、ちょっと気まぐれて売れ時を過ぎて徒長している値引きされたパンジーの苗を買い求めました。商品名は「ミニパンジー シトラスMIX」で写真をさかのぼると10月20日に植えたことがわかりました。しっかり咲いてくれるだろうかと心配もしながら少し強めに切り込みをしました。果たして、この春は絢爛という形容が相応しいほどの濃く明るい色のパンジーがたくさん咲きました。今季は「パンジー オレンジスライス」です。やはり売れ時を過ぎた不揃いの苗ですが個々の花の色のちがいがわかって春が楽しみです。

2025/12/07

矢野智司近刊

 検索キーワードに矢野智司を設定して時々チェックしています。先日、彼の近刊が矢継ぎ早に出ていることがわかってあたふたと取り寄せています。

『教育の世界が開かれるとき:何が教育学的思考を発動させるのか』(矢野智司・井谷信 彦編)(世織書房 20220412) 

『京都学派と自覚の教育学 篠原助市・長田新・木村素衛から戦後教育学まで』(勁草書房 20210821)

『愛と創造の教育学 境界を開くためのレッスン』(世織書房 20240707)

前2書は近刊といっても今世紀初出の論考が加筆等を経て編集されたものですが、それにしても300~500頁の著書3冊が毎年のように刊行されるというのは著者が内にもつエネルギー、精神の驚くべき強靭さを現わしているのではないでしょうか。

内容はしっかり刺激的です。『教育の世界が開かれるとき:何が教育学的思考を発動させるのか』の第4章の見出し「大正新教育のなかの西田幾多郎」を目にしたときはやはりそうだったのかという驚きとともに安堵するものがありました。かつて、2年前に信州教育の系譜につながる教育が西田幾多郎の「純粋経験」に通じるものがあるような気がして知人に伝えたことがありました。まず第4章から読み始めて第1章などを参照的に目を通しています。

私の問いの核心を読みやすい言葉で露わにして突く矢野智司の論考です。

2025/11/29

子どもの権利条約の“views”の邦訳をめぐって

 先日、ある勉強会で子どもの権利条約の政府訳で「(児童の)意見」と訳されているところは原典で「views」であることを知って目が点になりました。「単に意見ではない、子どもはこの世界をどう見ているのか」という考え方、視座で子どもの権利条約が書かれているという説明はとても明晰に思われました。ネットで調べるとここの部分のviewsを「思ったことや感じたこと(views)」と訳しているサイトがヒットしました。一般社団法人TOKYO PLAY(東京都渋谷区、代表理事:嶋村 仁志)の訳として掲載するPRTIMESのサイトです。この言葉だけでなく政府訳とのちがいが大きく興味深く思われたので第12条の両者の訳を引用します。

第12条

原典

1. States Parties shall assure to the child who is capable of forming his or her own views the right to express those views freely in all matters affecting the child, the views of the child being given due weight in accordance with the age and maturity of the child. 

政府訳

1.締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。 

一般社団法人TOKYO PLAY訳

1.この約束を守ると言った国は、思ったことや感じたこと(views)を形にできる子どもが、自分に関係するすべてのことについて、自由に表現する権利を保障しなければなりません。その表現はその子どもの年齢や発達に合わせて、十分に考慮されなければなりません。

原典

2. For this purpose, the child shall in particular be provided the opportunity to be heard in any judicial and administrative proceedings affecting the child, either directly, or through a representative or an appropriate body, in a manner consistent with the procedural rules of national law. 

政府訳

2.このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。 

一般社団法人TOKYO PLAY訳 

2.この目的のために、特にその子に影響があるすべての司法・行政手続きでは、国内法の規則に沿って、直接または代理人や適切な機関を通じて、子どもは声を聴かれなければなりません。 

※「思ったことや感じたことを形にできる」とありますが、むしろ、どんな子どもにも自分なりの想いや視点があると信じて、それを受け止めることが大切だと国連の一般的意見(一般的意見12・一般的意見7)にも書かれています。

※viewsとは、論理的な意見だけでなく、子どもの想いや視点そのものを指す言葉です。子どもの声を聴くということは、言葉にならない想い、態度、しぐさ、その背景も含み、発達段階に応じた多様な表現方法で示される子ども自身の視点を丁寧に受け止めることを意味します。

現行学習指導要領の改訂にかかわった経験から国の文書はすべて法令審査を通してときとして印象が異なる字面となることは承知していましたが、子どもの権利条約第12条の翻訳の両者のちがいは字面から受ける印象がその本質までまるでちがうものとして受け取られかねない危惧を表しているのではないかと思います。一般社団法人TOKYO PLAY訳の注意書き(後者※)はたいへん共感するものです。「言葉にならない想い、態度、しぐさ、その背景も含み、発達段階に応じた多様な表現方法で示される子ども自身の視点を丁寧に受け止める」という視座の地平を肝に銘じたい。

2025/11/21

ETCセットアップ完了通知

 今日、次の車のETC機器のセットアップが完了したことを通知するメールが届きました。その通知で登録番号を知りました。希望番号ではありませんがちょっと面白い並びの番号でした。左右対称というか逆に読んでも同じ4桁の番号で少しばかり重々しい印象があります。たかが番号、されど番号、気に入りました。

乗り換える車はレヴォーグ1.6GT-S アイサイト(VM型)です。ひとつ前のモデルですがアイサイトはver.3なので現行モデルと資質という点で同じといえるでしょうか。少し前に高齢の人が運転する車がかなりのスピードで追突して死傷者が出る事故があって車両の映像がニュースで流れました。自動ブレーキを過信してはいけませんが私も高齢者の仲間入り前の年齢となったのでアイサイトを選びました。

色はピュアレッドです。原色系の鮮やかな赤です。車種と走行距離、価格、程度などで絞っていくと一択でした。ネットでいろいろ見ていくとその色ゆえにこの価格設定かと思うところがありました。フェラーリの赤と見紛うほどの鮮やかな赤のレヴォーグですがなぜか自分が乗る車として躊躇を感じませんでした。

ところで、レヴォーグ1.6GT-S アイサイトはほとんどアイサイトのバージョンしか調べなかったのですがけっこうおもしろい車であることがわかってきました。ボディサイズはオデッセイRB3と比べて幅が2cm、長さが11cmしか違わないということ、つまり、ほとんど同サイズで決して小さくないこと。足回りはビルシュタインのダンパーが組み込まれていてけっこう硬いとのこと。オプションなのか本革シートが付いていること。現車を見てわかったのはまだまだ深いトレッドが残るスタッドレスが付いていること。そして、何といっても鮮やかな赤です。どうせならとブロンズのホイールやリアバンパーのキズ隠しに純正カバーなどを調達中です。そして、フルタイム四駆は冬の信州通いに心強い。小キズはガラスコート前のバフ掛けで目立たなくなっていることを期待しています。

2025/10/15

上田義彦写真展「いつも世界は遠く、」

 逗子の海が見渡せる丘の上に建つ神奈川県立近代美術館葉山館で開催中の上田義彦写真展「いつも世界は遠く、」に行ってきました。下は同館のウェブサイト掲載文です。

2025年7月19日 – 2025年11月3日 上田義彦 いつも世界は遠く、

上田義彦(うえだ・よしひこ/1957–)は、活動初期から自然や都市の風景、著名人のポートレイト、広告写真など幅広い分野で活躍を続けてきた写真家です。瞬間を捉える感性と卓越した技術で、時代とともに変化する作風でありながら一貫して普遍的な美を作品に込め、国内外で高い評価を得てきました。公立美術館で約20年ぶりの本展では、代表作や未発表の初期作品から最新作まで、自ら現像とプリントを手がけた約500点を通じ、その40年の軌跡を辿ります。

とにかくものすごい数の作品で、各フロアに一貫した明解なテーマを見つけることは難しく、ジャンルと撮影年を縦横に往来して彼の内に現れた作品をそこここに置いたのではないかと思いました。「ジャンル」というカテゴライズすることにつながる言葉を使うことは、しかし、彼の本意ではないでしょう。「・・・と思ったらシャッターを切る」 NHK-ETV「アートシーン」のインタービューでそうした趣旨の言葉がありました。写真展の動画では、彼は撮った後で写真を見てそこに何が写っているか考えることが大事と語っていました。いわゆる広告写真もアートとしての写真も区別することは難しいと思わせる彼の写真です。それはジャンルを越えてという言葉を超えた、あるいは、まったく異なる写真のあり様のように思いました。

「・・・と思ったら」という表現は誤解が生じるかもしれません。これまでテレビなどで見た彼の撮影の姿は慎重そのものに見えました。プラウベルマキナのファインダーを覗いて、たしか、蒼井優だったと思うのですが、静かに、じっと対峙して、ある瞬間にシャッターを切って次の瞬間には素早くフィルムを巻き上げてファインダーを覗き続けてシャッターを切る。微かな瞳の輝きをも見逃さない緊張感、緊迫感がそこにありました。「・・・」とは彼の日常のまなざしであり、気の休まることのない日々、刹那ではないのだろうか。撮影が終わってもその緊張感が続いていたと思いました。

作品のいくつかは額装がされていました。油絵の如くです。古めかしく燻したような金色の壮麗な彫りの額はかつて油絵といっしょに画廊や美術館の壁に掲げられていたものかもしれません。たしかに、今回の作品の一定数はまるで絵画のように目に映りました。「静物」はことのほか。そうか、何でもやればいい、何でもできるんだと思いました。写真を撮るという行為、それが広告であっても作品であっても、自分のまなざしを映し止める“だけ”なのだろうと思います。自分の世界を持つこと、そして持ち続けることのエネルギーが伝わる写真展でした。

2025/10/08

井口喜源治先生に学ぶ会

この土日は安曇野と舘林、佐野に行ってきました。安曇野では「井口喜源治先生に学ぶ会」の第2回に参加して、舘林では田中正造記念館、佐野では佐野市郷土資料館を訪れました。佐野市郷土資料館も田中正造の展示が目的です。

井口喜源治先生に学ぶ会は6月の第1回に続いての参加で、2回目となると少し落ち着いてそこに居ることができました。今回は清澤冽の後半でした。恥ずかしながらこの勉強会に参加するまで清澤冽はその名前すら知りませんでした。彼も井口喜源治の研成義塾で学びました。彼の人となり、業績等々はさておき、テキストの個々具体のエピソードのいくつかに目が留まりました。太平洋戦争の最中にあっても『東洋経済』誌上で「時流に屈しない言論」を発表し続けた巧みでしたたかな言論活動の中心的な役割を果たしたこと、とりわけ、昭和19年9月のダンバートン・オークス会議で起草された国際連合憲章草案の原案を国内で紹介したことには驚きました。戦時下でいかにしてその情報にアクセスし得たのだろうか。「挙国一致」の戦時体制の中で戦後日本が進むべき方向を見てその構想を描いていたわけです。彼のような人物が戦時下で日本の行く末、あるいは行く先を論じ描いていたことを学校教育は教えてきただろうか。

この勉強会のテキストは同志社大学人文科学研究所編『松本平におけるキリスト教 井口喜源治と研成義塾』(‎ 同朋舎出版 1979)で清澤冽の章は宮沢正典によるものです。今回の読み合わせの部分310~325ページに登場する人物は93人にも及んでその資料が添えられていたことにも驚きますが清沢の人脈にはただただ驚嘆します。その中には哲学者の西田幾多郎の名前もあります。こうした賢人たちがこんなにいて発言もしている国が太平洋戦争に向かっていったのは今の状況と重なるものがあるようで戦慄を覚えます。だからこそ歴史を学び続けなければならないともあらためて確信する次第。

清澤冽の章の「むすび」に次のブロックがあります。

 リベラルなジャーナリストとして、清沢と近い位置におり、よく似た立場を持したひとりに馬場恒吾がいたことはすでに記した。おもしろいのは、短軀で強靭な清沢も、対照的に、容貌魁偉であった馬場も、ともに青年期においてキリスト教の門をくぐり、アメリカで生活し、それらを通して独特の信念と人に屈することの嫌いな性格をつくりあげていたらしいことである。清沢のもっとも敬愛した石橋湛山も、人格形成期において宗教的経験を経ていたことも間違いない。清沢の直截さは、ときに嫌悪されることもあった。しかし、そうでありながら、弱い立場のものには寛容であり、強大なものに対して、すでに、十六歳のときその片鱗を示したように、それを生涯にわたってもち続けたのであった。また、実に多彩な人物に接しながら、自己を失うことなく、あの困難なときにも、抵抗のための孤立しない知恵を身につけていた。

「人格形成期において宗教的経験を経ていた」とは具体的にどういうことなのか。石橋湛山は日蓮宗のはずです。宗教的経験や宗教体験といわれるものはどういうことなのだろうか。また、松本平でのキリスト教はどのようなものだったのか。いつか追いたいテーマです。

今年度の勉強会、最終回は2月7日の第4回で、テキストは手塚縫蔵の章に入ります。私は思いがけず最終項の「時代感覚~求心的信仰」の読み手を担当することになりました。手塚縫蔵の名前は信州の教育を研究する中でいつもちらちらと視野に入ってきています。そして、藤田美実の導きにより手塚縫蔵こそ私の研究の核心を占める人物ではないかと気づき始めています。何という偶然、僥倖かとその幸せと責任を噛みしめています。

パール・バック『母よ嘆くなかれ』

音楽療法の研修資料で前に作成したスライドからパール・バックの引用を使うことにしました。ポール・ノードフ、 クライブ・ロビンズ著、望月 薫訳『障害児教育におけるグループ音楽療法』(人間と歴史社 1998) に寄せたパール・バックの「序」の一部です。 遅滞のある、ゆっくりと考える人た...