2001/08/17

テレビテレビテレビ!

■12年近く使ってきたテレビがついに映らなくなって買い替えとなりました。急なことだったので、とにかく安いものを探しました。ワイドサイズとか、デジタル放送とか、ハイビジョン放送とか、テレビも変わってきていると感じてはいましたが、いざ買うとなるとわからない。行った先の量販店にはくわしい店員がいなくて、展示品の取説を見て、たぶんこれならしばらく使えそうだと思った29インチのフラットブラウン管、BSチューナ内臓、D1端子付きを49,770円で買いました。
■テレビ台を組み立てていて、はたと気づいた。ずいぶん大きい。今までのは何インチだったのだろう…品番を見ると27という数字が…そうか、家では大きく感じて、店では小さく感じて、さらに大きな29インチを選んでしまったのでした。
■映りはとにかくきれいです。テレビの解像度は画面の大きさに関係なく一定なのでこれくらい大きくなると画面が荒れる感じになると思っていましたが、どうしてこんなにもきれいなのだろうと不思議です。これまで何回も見てきたビデオも、オリジナルを見ているかのような鮮明さです。その画面を見ているだけで目が点になってしまいます。フラットの画面は圧迫感がありません。ボディはシルバーですっきりした印象です。それがとても自然でやさしい感じがします。こうなるとDVDプレーヤーもそろえたくなりますが、PS2があるのでちょっと見送りです。
■不要となったテレビは家電リサイクルに回しました。郵便局で家電リサイクル券を買ってメーカー指定の引取所まで運ぶだけです。費用はかかりますが10年以上も使ってきたテレビをリサイクルに回すのはちょっとした感慨がありました。

2001/08/11

東京ディズニーランドと『千と千尋の神隠し』

■7~8日、東京ディズニーランドとイクスピアリに行ってきました。ホテルはシェラトン・グランデ・トーキョー・ベイ・ホテルに泊まりました。まとめて“東京ディズニーリゾート”というネーミングで、9月4日には東京ディズニーシーがフルオープンします。
■東京ディズニーランドは実に11年ぶりです。やっぱりものすごい人人人で、朝5時に着いたのにすでに列ができていました。小さな子どもたちも楽しそうに何時間も待っているのにはほんとに驚いてしまいました。ディズニーランドって、一体何だろう…
■朝一番に行ったので“プーさんのハニーハント”もほとんど待ち時間がなくて、かえって壁面の物語を読む時間がなくて残念だったくらいです。プーさんは今いちばん人気です。ショップに行ってもプーさんだらけ! 何をしてもパッとしないけど、マイペースのプーさんからは“今のままの自分でいいんだよ”というメッセージが伝わってきて、“今”にアピールするところが大きいのだと思います。
■今回は、なぜか、“音”に敏感な自分にびっくりしました。“イッツ・ア・スモールワールド”の音は、古いAMラジオが精一杯音を出しているようで不快でした。アトラクション自体が古くて、だから、オーディオ機器も録音も古いのかも知れません。でも、もうちょっと生理的にやさしい音でもいいんじゃない?と思っています。
■ディズニーランド全体では音のマネージメントに感心しています。園内放送はないし、音楽も流さない。声を機器に通すときはそれなりの効果を求めるときだけです。直接的な説明はみんな肉声です。これがすごく心地よい空間を提供しているのです。
■園内に音楽が大きく流れるのはパレードのときだけです。私はエレクトリカルパレードの音楽が好きで、今回もそれがいちばんの楽しみでした。固定スピーカーとパレードの各セクションから流れる音楽は一体どういうシンクロをさせているのだろうと不思議です。
■イクスピアリでは宮崎駿の新作『千と千尋の神隠し』をみました。よかった。ほんとによかった。
■私の興味は音楽です。音楽は久石譲、今回はどんな音楽を作ったのだろう。『天空の城ラピュタ』も『魔女の宅急便』も『となりのトトロ』も好きなんですが、宮崎駿の映画音楽でいちばん好きな『耳をすませば』の音楽担当は、意外にも久石譲ではないのです。坂本龍一と『ラストエンペラー』で音楽を担当した野見祐二が『耳をすませば』の曲を書いています。久石譲の音楽を意識してきいたのはNHKスペシャル『驚異の小宇宙・人体』が初めてでした。以来、彼の音楽はよくきいてきたつもりですが、『耳をすませば』はちがったのです。久石譲の音楽はメロディーラインが絶品で、野見祐二の『耳をすませば』の音楽も似ています。でも、どこかちがいます。
■さて、『千と千尋の神隠し』の音楽は、今までの久石譲とは一味も二味もちがいました。あのストーリーならどうしてもそんな音楽になってしまうのかも知れませんが、私にはすてきな音楽でした。ちょっと“現代音楽”っぽくて多彩で、クラシック音楽みたいな楽器の使い方で、私は控えめな音楽を一生懸命きこうとしていました。映画が終わったら近くのCDショップでCDを買ってしまいました。
■映画そのものもよかったです。比喩とか直接的なメッセージとか、それはそれとして、宮崎駿のイマジネーションの自由さにあっと驚いて感動してしまいました。怪物のような神様たちがぞろぞろと骨休めにやってくる湯屋の姿は、いつか、夢でみたちょっとこわい光景なのです。すごく高いところで足元がない! 居心地がよいはずなのに、何か、終わりのないことをしている自分がいる。夢でみたそんな光景をスクリーンでみせられてるとぐいぐい引っ張り込まれてしまいます。
■千尋は川でおぼれかけたことがあります。ハクと空を舞うとき、そのときの記憶が一気によみがえります。川の水の中でハクと出会ったことを思い出すシーンには泣いてしまいました。自分の存在の不思議さ、自分って何? そんな哲学的な問いかけとひとつの答が『千と千尋の神隠し』にはあるのではないでしょうか。“神”というキーワードのとらえ方は私は曖昧ですが、『千と千尋の神隠し』に登場する神様たちは風呂に入るし酒も飲むしで、妙に人間臭さがあって楽しい。
■今回の旅はカローラフィールダーSタイプで中央高速道路を走りました。ディーゼルエンジンのルシーダとは比べものにならないくらい快適なドライブでした。

2001/07/27

サラ・ブライトマンの『ラ・ルーナ』

■今日は出張もあって100キロあまりも走りました。車で走っているとき、ずっとサラ・ブライトマンの『ラ・ルーナ』をきいていました。『ラ・ルーナ』というアルバムの『ラ・ルーナ』と、続くシークレット・トラックの『ムーン・リバー』です。2時間あまり、ずっと同じ曲ばかりきいていたことになります。
■ノートによると、これはドヴォルザークの歌劇『ルサルカ』の中のアリアとのことです。木管のユニゾンがどこかなつかしいと思ったのはそこなんですね。ドヴォルザークの“音”です。
■なんと美しい歌、そして、なんときれいな声なんだろう! 『ラ・ルーナ』は「このアルバムの直接のインスピレーションとなった曲」とのこと。「ラ・ルーナ」とは「月」です。『月光浴』という、月の光だけで撮った写真集が少し前に話題になりました。サラ・ブライトマンはこのアルバムで月をテーマに選曲しています。月明かりは昼間みえない何かをみせてくれます。月の歌を歌うサラ・ブライトマンもまた彼女の世界をひろげたようです。
■激しい想いも、切ない想いも、サラ・ブライトマンが歌う恋の歌はまっすぐ心に届きます。そして、安珠の写真とメッセージもそうなんですが、サラ・ブライトマンの歌も、なぜか、“ひとり”ということを意識してしまいます。“ひとり”というよりも、そうですね、“自分”ということでしょうか。「音楽とは、語るべき自分をつくり、もたせ、守らせるもの」という北村智恵の言葉を実感させてくれるサラ・ブライトマンの歌であり、また、安珠の写真でもあるように思います。アートはそういうものなんですけどね。

2001/07/25

安珠が撮る写真

■安珠の写真集が届きました。『恋文の森』と『Hoshi no hito』の2冊です。写真集の古書を扱うインターネット書店“小笠原”で買いました。安珠のサインやメッセージが入っています。安珠写真展「恋文の森」の半券もはさんでありましたから、その会場で買い求めたものでしょうか。どちらも折り目もなく、たいへんきれいでした。
■彼女が撮る写真の魅力は何と表現したらいいのでしょうか。どこかやさしげで芯があって…。『恋文の森』につけられたメッセージを紹介します。

ごあいさつ
わたしは窓の外の風景を眺めるのがとても好きです。それは幼い頃の入院生活から、始まっています。じっと眠るだけの毎日で、時間を感じることが出来たのは、白い壁に切り取られた四角い窓の風景を眺めている時だけでした。ゆらりと流れる雲、風に吹かれる木々、太陽や星。どこまでも空想の世界がひろがってゆく、心の窓でもありました。
誰も、窓の外に流れる時間を止めることは出来ません。わたしたちの命には限りがあります。でも、愛に限りはありません。たとえ、命が消えたとしても、愛は永遠です。
人生という深い森をさ迷い傷つきながらも、自分を受け入れて歩いてゆくことが、愛する人への恋文なのだと思います。
永遠の愛を信じて生きてゆきたい。そのためにわたしは一瞬を大切に想います。

※おそらく、1995年の「安珠写真展 恋文の森」の会場で販売された写真集『恋文の森』に添えられたメッセージです。

2001/07/22

『センス・オブ・ワンダー』とプラネタリウムとプール

■海の日から今日まで、3日の連休が終わろうとしています。毎日夕立がありました。疲れが一気に出たようで、この3連休は休養第一で過ごしました。
■7月20日(金)は、『センス・オブ・ワンダー』の映画会に行きました。邦訳者、上藤恵子氏の講演と映画です。映画は上籐恵子が『センス・オブ・ワンダー』の舞台となったレイチェル・カーソンの別荘を四季折々に訪ねて同書の朗読をするというスタイルでした。レイチェル・カーソンの本はすばらしいし、舞台となった別荘を取り巻く自然もすばらしい。でも、私は、ここ、私の生活圏の自然も負けず劣らずすばらしいではないかと、へそ曲がりなことを考えてしまいました。どういうわけか、今年は松阪市から度会町への通勤路の田畑や里山がほんとに美しく見えて仕方がありません。梅雨時はまた格別でした。どうしてでしょうね。
■7月21日(土)は車で10分足らずの“みえこどもの城”に行って、“IMAX”(アイマックス)の画面を使ったプラネタリウムと3Dの映画をみてきました。プラネタリウムは先月も名古屋市立科学館でみてきたばかりですが、何度みてもいいものです。
■今日はちょっと元気が出てプールで泳いできました。

2001/06/20

『ほしひとつ』

■『ほしひとつ』はNHKの『おかあさんといっしょ』で歌われてきた歌です。この歌をあらためてきく機会があって、その豊かな情感と音楽性に心底ほれこんでしまいました。
■ピアノで弾こうとしましたが手持ちの『おかあさんといっしょ』の歌集には入っていません。楽譜を探しに行く時間もないのでCDから採譜することにしました。採譜してコード付けをすると曲の構造がわかっていい勉強になります。『ほしひとつ』の冒頭はクリシェのエッセンスをちょっぴり効かせています。Aの最後2小節は最高音が2回出て低い主音で強引ともいえるような終わり方をします。Bは…雰囲気は短調に転調したかのようですが、実は、D-durからB-durへの転調です。CDの神崎ゆう子さんの歌はその曲想の切り替えが実に見事でほれぼれしてしまいます。
■『ほしひとつ』は神埼ゆう子作詞、坂田修作曲です。『おかあさんといっしょ』の歌のおねえさんとおにいさんです。歌詞を紹介します。(神崎ゆう子作詞)
ほしひとつ

よぞらを たび する ほしたちを
ちいさな ゆびで かぞえてごらん
あなたが うまれた ひに
ほしが また ひとつ ふえた

よぞらを たび する ほしたちを
ちいさな こえで かぞえてごらん
あなたが おしゃべり した ひ
ほしが また ひとつ ふえた

ながれぼしが ひとつ
ねがいごとは なに
ちいさい ころからの
ゆめを かなえてね

よぞらを たび する ほしたちを
いつか ふたりで かぞえて ごらん
あなたが およめさんに なる ひに
ほしが いっぱい

あなたが およめさんに なる ひに
ほしが いっぱい
■私は「およめさんになる」ことがすべての女性の目標だとは考えていません。「ほしがいっぱい」になる瞬間は人それぞれだと思います。そんなアンチテーゼを持ちながらも神崎ゆう子さんが歌う『ほしひとつ』の文脈に感じ入ってしまうのです。音楽の力はやっぱり大きい。

2001/06/10

大城梨花&大城杏花のトワイライトコンサート

■6月9日(土)アスト津のギャラリーで大城梨花と大城杏花のフルートとピアノコンサートがあって行って来ました。会場は展示会などの多目的ギャラリーで、東側が床から天井まで全面ガラス張りとなっています。ギャラリーなので当然天井は高く、アルミの格子に区切られた窓からは津の街並みと伊勢湾が見渡せるという、それだけでキャンバスとよべるような空間でした。
■プログラムは、『愛のあいさつ』(エルガー)、『からたちの花』(山田耕筰)、『ひき潮』(マクスウェル)、『セレナーデ』(シューベルト)、『月』『想い』(大城梨花)、『熊蜂の飛行』(リムスキー・コルサコフ)、『亡き王女の為のバヴァーヌ』(ラヴェル)、『春をよぶ雨』『海に眠る』(大城梨花)、『ロミオとジュリエットからモンタギューとキャピレット、少女ジュリエット』(プロコフィエフ)、『革命』(ショパン)、『新世界より第2楽章』(ドヴォルザーク)、『ソナチネ』(サンカン)です。
■私は大城梨花のオリジナル曲がききたくて行きましたが、プロコフィエフの『ロミオとジュリエット』をプログラムに見つけてうれしくなりました。近頃またこのバレエ音楽を夜な夜なきいているからです。
■照明はギャラリー用のタングステンライトだけで、正面のガラス窓は時間とともに暗くなっていきます。
■大城梨花のフルートは常に高いテンションでコントロールされている音です。きいていてその緊張感と込められたメッセージがよく伝わってきます。とくに彼女自身の作品で生き生きと奏でられます。作曲も含めて、地方都市でこうして自分のペースで音楽活動を続けている音楽家は多くありません。敬服しています。
■大城梨花の作品はきくたびに“同時代”(コンテンポラリー)ということを意識してしまいます。今、同じこの時を生きる者のメッセージとして共感があります。彼女の作品は“癒し”ものではありません。うまくいえませんが、きく自分の中で“昇華”する何かがあるように感じます。
■『ロミオとジュリエット』は、ピアノがアップライトだったために音にならなかった音がたくさんあって残念でした。速いパッセージで鍵盤が戻らないのです。フルコンサートのグランドピアノでこの曲を弾くのは並大抵なことではないでしょうが、一度きいてみたいと思いました。

2001/05/30

EOS630

■昨日、2台目のEOS630を手に入れました。もちろん中古です。14800円でした。シャッター幕に少し油がにじんでいます。このまましばらく使ってクリーニングまたはシャッターユニットを交換することになると思いますが、ボディがすごくきれいで気に入りました。
■EOS630は初代EOSの最終モデルで1989年の発売です。ボディの芯は金属で、適度な大きさと重さ、頑丈さが魅力です。1台目のEOS630は今年1月末の東京出張のとき、歩道の雪が凍結していて転倒。私の体重をうまく逃がしてくれたものの、なんと、ボディの底を割ってしまいました。でも、メカにはなんのダメージもなく、その頑丈さに驚きました。プラスチックボディの適度なねばりと強度がうまく働いたのだと思います。ISレンズも大丈夫でした。シャッターに難ありとはわかっていていも、やっぱりEOSはこれだと思っています。もちろんEOS1シリーズは別です。
■EOSKISSをもっている知り合いから、きれいな写真が撮れないと相談を受けています。ピントが合わない、色がきれいに出ないと、メーカーに点検に出したところ異常なしだったとか。キャノンのEOSシリーズの特性として、露出のアンダー傾向があるようです。これはポジの特性に合わせた設定との説もありますが、ネガにとっては色のにごりの原因となります。また、キャノンの評価測光は意図的過ぎて、条件によってはびっくりするような極端な“修正”もあるようです。私は1段低くフィルム感度を設定していますが、それでも尚アンダー傾向を示すことがあるくらいです。また、EFレンズは光を十分に回さないとその性能を発揮しないのではないかと思っています。光が十分回って、そこから撮影者の意図的な操作が始まる。そんな気がしています。
■私が使っているEFレンズは、28~135mmF3.5~5.6IS と、50mmF1.4の2本です。手ブレ防止機構にはほんとに助けられています。私は自然光(常光)だけで撮るのが好きです。シャッター速度が1/8であろうと1/4であろうとおかまいなしにシャッターを切ります。ISなら見事に止まってくれます。
■さて、私はこの2台のEOS630をどう使おうとしているのか。1台はフジフィルムのポジ、トレビ100を入れます。もう1台にはモノクロのプレストかアクロスを入れます。 これから麦秋がきれいな季節です。カラーもいいし、モノクロもいい…なんと欲張りなんだろう!

2001/05/20

ニューヨーク・ニューヨーク!

■私のお気に入りのテレビ番組にNHK-BSの『NEWYORKERS』があります。この番組に限らず、アメリカ合衆国(以下「アメリカ」)を取り上げた番組はけっこう意識して見ています。私はアメリカが好きなのかも知れません。
■1989年春、新潮社の『小説新潮』3月号臨時増刊として『アメリカ青春小説特集』というMOOKが出ました。冒頭から始まる特集「アメリカ作家の仕事場」は、それまで日本の作家たちの、ちらかった書斎の写真ばかり見ていた私にはとても新鮮でした。日本の作家たちはそこで「貧乏、酒、浮気」という宿命を負って原稿用紙に向かっているかのような印象がありましたが、アメリカの作家たちは、明るい部屋でタイプライターやコンピュータ、あるいはスパイラルノートや3ホールのルーズリーフを前にしてカメラに向かって微笑んでいました。
■いつだったか、こんな話を聞いたことがあります。日本語で書く小説はよく売れても100万部だが、英語で書く小説は英語を話す国でそのまま出版できるので桁違いなセラーを記録する。だから1つの作品による収入も多くて、次の作品のための構想と取材に必要な十分な時間を使うことができる。それだけに大作が生まれやすいと。
■『アメリカ青春小説特集』に取り上げられた20代30代の作家たちは私にとってたいへん魅力的でした。同じ歳の作家を探しました。ローリー・ムーアがいました。このGWに書店でローリー・ムーアの本を見つけたとき、ふと、自分は取り残されているのではないのかという観念に襲われてしまいました。彼女は私と同じ年に生まれました。それぞれに歩む道がちがうことはわかっていても、時間の流れ方のちがいまでも受け入れるほど私には心のゆとりがないように感じました。『アメリカ青春小説特集』の取材を受けた時、彼女は勤務先のウィスコンシン大学から奨学金が出ているので小説の執筆に専念していられるとのことでした。こんな時間の使い方は私には与えられない。自ら求めるならリスクも付いてくる。ひとりの人間が生み出すものにそれだけ期待し、投資し得る社会の背景にある文化の深さ、あるいは寛容さ、あるいは貪欲さに私はため息をもらしました。それだけアメリカはふところが深いのでしょうか。とにもかくにもローリー・ムーアは小説を書き続けていました。
■NHK-BSの『NEWYORKERS』には“自分探し”にこだわる人たちがとり上げられています。その中の何人かは成功し、何人かはつつましく自分なりの暮らしをしています。いずれにせよ、私には魅力ある生き方に映ります。アメリカンドリームをものにできなくても、多様な生き方がそれぞれ認められる街、それがニューヨークといったら笑われるでしょうか。ウェブサイトを渡り歩いてもそんな印象があります。自分探しの旅先にニューヨークを選ぶ人は少なくありません。私もそのひとりになるのかも知れません。

2001/05/15

D・ケネディ『ビッグ・ピクチャー』

■このゴールデンウィークに買った本で、久々に読書に没頭した休日となりました。(新潮文庫)
■写真が好きな私には撮影から現像、焼付、そして作品にまつわる記述がこたえられない本です。また、登場するパソコンとプリンタ、IBMのThinkPadとCanonの携帯インクジェットプリンタという組み合わせは私がふだん使っているシステムと同じで、これも親近感があります。
■ストーリーは、一流法律事務所に勤める弁護士がさまざまないきさつからフォトグクラファーになるというもので、もちろん、これはまだ読んでないあなたにミステリーを紐解くおもしろさを残しておきたいためのほどほどの紹介ですが、安定した高収入の仕事を辞めて自分の感性と技術で作品を作っていくフォトグラファーになるという設定は“絵心”をいだいたことのある人ならぐっと惹かれるところではないでしょうか。写真は私にとって脇役以上の配役です。
■「あとがき」にもありますが、この本は、主人公が犯した殺人という罪がいつどこでどのように報いを受けるのかがもの足りなく、読んでいて腑に落ちないところがあります。

パール・バック『母よ嘆くなかれ』

音楽療法の研修資料で前に作成したスライドからパール・バックの引用を使うことにしました。ポール・ノードフ、 クライブ・ロビンズ著、望月 薫訳『障害児教育におけるグループ音楽療法』(人間と歴史社 1998) に寄せたパール・バックの「序」の一部です。 遅滞のある、ゆっくりと考える人た...