2026/07/20

パール・バック『母よ嘆くなかれ』

音楽療法の研修資料で前に作成したスライドからパール・バックの引用を使うことにしました。ポール・ノードフ、 クライブ・ロビンズ著、望月 薫訳『障害児教育におけるグループ音楽療法』(人間と歴史社 1998) に寄せたパール・バックの「序」の一部です。

遅滞のある、ゆっくりと考える人たちの為の音楽は、シンプルで表現力があり、強く、ベーシックなものを軸にしていかなければならない。それは、感情に頼るのではなく、意味とコントロールをもって奏されるべきものなのである。喝采などにしてもそうだ。ふざけて騒々しい音をたてるのではなく、そこに意図とコントロールがなければならない。

パール・バックが『大地』の作者であることは知っていましたが、どうして音楽療法の本に執筆しているのか。疑問に思いながらも最近までその経緯を調べることはありませんでした。今回、あらためて研修資料に引用するに当たって調べると、彼女の娘に障害があって接点を知ることになりました。『母よ嘆くなかれ〔新訳版〕』(伊藤隆二訳 法政大学出版局 1993)は自分の娘について書かれた本で取り寄せて読みました。1950年、著者が58歳のときに書かれた本です。娘を学園に託したのは1930年、著者が38歳のときなので実に20年を経て書かれました。冒頭には「この話を書く決心をするまでには、ずいぶん長い時間がかかりました」とあります。その経緯はともかく、娘のキャロラインが生まれたのは1920年で、その頃の社会状況はどうだったかと思い巡らさずにはいられませんでした。中国に革命が起こった頃だったからです。娘を育てたのはアメリカではなく中国で、ひと夏は混乱した中国を離れて長崎で過ごしています。中国と日本の記述が私の目を引きました。

 わたしが中国で暮らしている間に、目の見えない人も、足の不自由な人も、耳が聞こえないために話せない人も、また身体の形がととのっていない人も見たのですが、どの人も、みんなと同じようにふつうに生活していたし、またなんのこだわりもなく、だれからも受けいれられていました。といっても、その人たちの欠点が無視されていた、というのではありません。ときにはそれがその人のあだ名になっていたこともあるくらいです。
 たとえば、わたしがまだ子どもであった頃の遊び友だちの中に、片方の脚が曲がっているために「びっこのチビ」と呼ばれていた男の子がいました。わたしたち西洋式の考え方では、その子の欠点をあだ名につけるというのは、ずいぶん残酷なことに思われたのですが、中国人にはそういう気持ちはいっさいなかったのです。その子の脚が曲がっているのは事実だし、その曲がっているというのはその子の一部であってそれ以外ではないと、中国人は考えていたのです。このようにその不運を当たり前のこととして受けとめられると、その子自身にとっても、心の安らぎになったようでした。

「個別具体的なその人」を知っているということではないのだろうか。殊更中国の「障害観」はこれこれと取り上げるのではなくあまりにも当たり前のこととして記述されていると読めます。また、当時、中国では家族を「施設」に入れるなど考えられない、家族が共に暮らすことが当たり前でなんら疑問を挟むことではないとパール・バックはとらえています。日本については次の記述があります。

 どこへ行っても、わたしたちは親切に、また丁寧にもてなされました。娘が他の子どもとはちがうことに気づいた人は一人もいなかったようです。娘はだれからもありのままに受けいれられ、それ以上は望めないほど優しくもてなされました。それは、わたしたちにとって心の痛みを癒やすのに十分すぎるほどに思えました。

娘が障害ゆえにアメリカ人から心無い言葉を投げかけられ心をいためるパール・バックがこれほどまでに書き留めていることに私は心を揺さぶられました。近代とは…個人主義とは…根源的な問いが湧き上がっています。

『大地』は、正直なところ、その分厚さから読むことを避けていました。しかし、『母よ嘆くなかれ』を読んで『大地』も読みたくなりました。ネットでは長編として面白いと散見されますが、私はその記述、書きぶりに惹かれます。決して難しい言葉や言い回しがあるわけではなく、わかりやすいのに深い洞察が伝わってきます。全編を読み終わるのはいつのことかわかりませんが、ここしばらくの心の置きどころとなることと思います。

2026/07/19

「授業に活かす音楽療法のエッセンス」

細切れの時間を使って研修資料を作成しています。テーマは「授業に活かす音楽療法のエッセンス」で、私が2000年(平成12年)に国立特別支援教育総合研究所で研修中に取り組んだときと同じです。2000年というと今から26年も前のことですが当時ひっかかっていたことが今なお「解決」されることなくひっかかっています。そして、今回はその頃から溜めこんでいたスライドをそのままだったり手を加えたりして使うことになりました。

2010年に作成したスライドで磯山雅氏の文を引用しているものがありました。当時まさに意を得たりと思ったにちがいなく、今も同じなのでここに引きます。出典はURLを見ると朝日カルチャーセンターのサイトですが今は見ることができません。カルチャーセンターの講座の紹介文だと思います。


音楽は、諸芸術のうちでも、もっとも純粋な時間芸術ということができる。音楽は時間のうちに展開され、日常的時間の代替となり、時間を豊かに充実させ、ついには時間を超える次元を、存在に対して切り開く。また音楽は、人間の時間への挑戦であり、人間による時間の構造化であるとともに、人間が時間的存在としての自己を克服する、究極の表現手段ともなっている。このような認識に基づいて、音楽が人間に与える感動の根源を問いたいと思う。(礒山 雅 2009)


これほどまでに私が音楽療法における音楽の“核心”について考えていることを言語化しているテキストは他に知りません。私が音楽の機能について自分の考えを文言化した最も古いものは1984年の日付があります。この間に音楽専科だったりミュージック・ケアと出会ったり、そして、現象学と出会ったことで私の思索が深まりました。前進したかどうかは心もとない限りですが。 


さて、今回、1時間、およそ100人に実技中心でミュージック・ケアを伝えるのは至難の業です。当日は実技中心の楽しい時間としてスライドは事前に配布して事後にふりかえりとして見ていただくことにしたいと考えています。

2026/07/11

梅雨最中の週末

 私が住んでいる地域は梅雨明けがまだらしくこのような見出しとなりました。溜まっていたメモからの構成です。

梅雨最中のいつだっか、ある日の土曜日は台風が去って夕刻前から久しぶりに空が明るくなりました。大雨で被害が出ているところもあって雨の恵みとばかり言ってはいられませんが昨年の夏から水不足で気をもむことがあるので梅雨の雨は有難く思っています。庭の土もゆるんでそそくさと草取りや花の苗の定植をしました。手を動かせながらもいろんなことが過ってほとんど頭の整理の時間でした。

玄関先の壁で蛹となっていたツマグロヒョウモンはきれいに羽化していつの間にか飛び去りました。あと少しで7月だというのにあまり夏らしさを感じないのはどうしてなのだろうかと少しばかり訝しく思いました。今年の夏もきっと厳しい暑さだと思いますがどこか危うい暑さでもあるように思うのは、これもどうしてなのだろうかと思わずにはいられません。これから8月いっぱいはいつになく慌ただしく多忙な毎日が続きます。心して一日一日を大切に過ごしていきたいといつになく真剣に思いました。

翌日曜日はレヴォーグのエンジンオイルとオイルフィルターの交換のためディーラーに行ってきました。私のレヴォーグはずっと東京スバルで整備を受けていて私の乗り方はシビアコンディションではありませんが長く乗りたいので引き続きディーラーで見てほしいと思ったわけです。オドメーターはあと2,000kmでデファレンシャルオイルの交換となります。デフオイルの交換はこれまでしたことがありませんがSUBARUのAWDはその指示が取説にあります。40,000km毎の交換です。私の今の乗り方だと2年周期になります。あと、エアコンフィルターは自分で交換します。

今日は久しぶりに地元の観音岳に登りました。観音岳は4月以来です。森林公園の登山口からしばらく続く階段はいつも息が上がります。ゆっくり歩いても同じで今日も息が上がりました。すぐの東屋で予防的水分補給をして小休止、すると息も脚も軽くなるのは毎度のこと。観音岳は頂上のほかはこれといった眺望もありませんが堀坂峠を挟んだ堀坂山とつなぐ周回コースは地元で人気があります。最近はトレランスタイルで駆ける人が多く私も知人から勧められてトレランシューズで登るようになりました。asics Fuji Lite 6 は底も甲も柔らかいのに食い付きがよく滑らず型崩れもしない不思議な靴です。もちろんすこぶる軽量です。サイズは27.0cmで中厚手のトレッキング用ソックスと組み合わせると2Eという細身が私の足にマッチして快適です。防水機能はありませんがそもそもこの靴を履いて登るのは天気が安定しているときだけなので問題はありません。

帰宅してザックとカメラバッグを洗剤で洗いました。ザックはドイター フューチュラ 30、カメラバッグはナショナルジオグラフィック ウォークアバウト NG W5070です。フューチュラは数年前のモデルで背中に当たる部分がメッシュで空間ができるようになっていて夏場の近場はもっぱらこれで登っています。ナショジオのカメラバッグはリュックタイプで2012年に購入したものです。バスタブに15㎝くらい張った湯にエマールを入れまずカメラバッグを入れて押し洗いをしたところ湯が黄色っぽくなりました。次にフューチュラを入れて押し洗いしてそのまま漬け置きたところ湯は茶色に濁ってきました。こんなに汚れていたのかと驚きました。

夜は先日加わったX-H2のファームウエアを最新のものにバージョンアップしました。X-H2の2台体制は頼もしい!

2026/07/04

今頃のハーヴェイ『新自由主義-その歴史的展開と現在』

小国喜弘の論文「「教育実践」の歴史性-戦後教育の転換に焦点をあてて」(小国喜弘)(東京大学大学院教育学研究科 基礎教育学研究室 研究室紀要 第40号 2014年7月) は大変示唆に富んでいて、とりわけ目を引いたひとつに次のフレーズがあります。

さらに1970年代末葉には、イギリスにおけるサッチャー政権、アメリカにおけるレーガン政権などが成立し、新自由主義が政治の主導権を握り始める。総体としていえば、人権意識の覚醒こそが新自由主義浸透の基盤を準備したことをハーヴェイらが論じているが2)、果たして学校教育においてもそのような関係を読み取り得るのだろうか。またもし総体としてそのような関係を認め得るとして、新自由主義への抵抗の可能性は教育実践の歴史の中にどのように再発見することができるだろうか。

先日、森島豊著『人権思想とキリスト教:日本の教会の使命と課題』(教文館 2016)を読んでいて小国喜弘のこの論文の記述がにわかに気になってきました。誤解を恐れずに言うならば、長年感じていた学校教育での人権の語られ方のもどかしさが首をもたげてきたのです。そもそも人権とは何か。人権思想はどのようにして生まれ語られてきたのか。小国が指摘する新自由主義との関係は学校教育の視座からどのように捉えられ得るのか。不勉強の私は今頃というか今更というべきか、ハーヴェイの『新自由主義ーその歴史的展開を現在』(渡辺治監訳 作品社 2007)を読もうと取り寄せました。20余年前の本です。原書は2005年に出ています。この本はページ数はありますがおよそ半分は解説に当てられています。門外漢の私にはそうすんなりと読めそうにないと思っていましたが比較的字面を追うことはできそうに思いました。かといって小国が指摘する記述がどこなのかまだわかっていません。私が理解するには今しばらくかかりますが、「人権」や「自由」について深く考えるステップとなることに興味津々です。

2026/06/27

『マリウス・プティパ自伝』の「オマージュ」より

ここ2年ばかりマリウス・プティパ著、石井洋二郎訳『マリウス・プティパ自伝』(新書館 1993)を探していてやっと入手することができました。著者はサンクトペテルブルグ帝室劇場(現在のマリインスキー劇場)で60年にわたってバレエ・マスターを務め、チャイコフスキーのバレエ音楽の誕生にストーリーのみならず音楽にも関わったとされています。そのあたりのエピソードが記されているのではないかと興味津々でした。本が届いて、ざっと目を通したばかりですが、彼の人生がいかに創造性に満ちていたことかと読みながらわくわくしました。チャイコフスキーとの接点はというと作品の核心に触れる記述というよりも制作のスケジュールや多分に劇場などとの調整にかかるものと、現時点では捉えています。取り急ぎの拾い読みで私の目を釘付けにしてのはページのおよそ半分を占める「プティパへのオマージュ」のジョージ・バランシンのインタビューでした。ここでその全文を引きたいところですが次の2か所を取り上げます。

フランスのオペラ劇場が衰えつつあったのにたいして、大きな活力がみなぎっていた当時のロシア演劇界に、プティパはフランス的エレガンスの精髄、視覚的なフォルムの絶対的完璧さの感覚、高度な人間的象徴性などをもたらしました。当時の西欧では、バレエに一種の因習的な詩学を押しつけようとする傾向がありましたが、それにたいして、彼は踊り手の重要性を強調しました。そもそもこの因習的な詩学というのは、じつのところ、オペラを気取った幼稚なパントマイムにすぎなかったのです。こんにちでもなお、プティパの作品はぞっとするような型通りの演出で毎年のように上演されていますが、そうやってこの伝統は、いまだに後生大事に守られているのです。(P.158-159)

この中の「彼は踊り手の重要性を強調しました」というフレーズは、バレエの作品は上演されるその都度新たな発見と生命性が見いだされることで作品そのものがコンテンポラリー性を得ていくものであることを指摘していると捉えています。一人ひとりの踊り手の身体性がバレエにその都度生命性を与えるという考え方です。同じ演目の同じパ(pas)であっても個別具体の創造があり、その都度異なる姿がそこにあるのではないか。私がミュージック・ケアとバレエに共通する琴線を禁じ得ないのはこの点ではないのだろうか。

そして、言葉です。

しかも彼は、ヴァイオリンの名手であり、すぐれた音楽家でもありました。作曲家にたいしても、専門家の言葉で話ができました。チャイコフスキーは、彼を敬愛していました。プティパはピョートル・イリイチに、まさにその音楽が求めていたものを与えたのですから。しかもその音楽の要求を満たすのは、容易なわざではなかったのです。(P.159-16)

同著の「眠れる森の美女」の「ピョートル・チャイコフスキーのために、マリウス・プティパによって構成されたバレエの音楽・舞踊プラン」は「チャイコフスキーがこのバレエ音楽を作曲する下敷きになった、簡素なプランの素描」とのことですが、物語の進行に沿った音楽のイメージは作曲家がスコアに書き込む音楽用語の発想用語というのだろうか、「荘厳に」など演奏への指示を示す言葉が書き込まれています。作曲家がそうした「プラン」に沿って創作を進めるとき確かな手応えがあるのではないかと想像することができます。

ところで、ジョージ・バランシンとは何者なのだろう。Wikipediaでは「バランシンは、19世紀に確立されたクラシック・バレエから物語性を排し、純粋な身体の動きを追求した作品を生み出したことにより、20世紀のバレエに多大な影響を与えた[2]。」とあります。なるほど、と腑に落ちるものがありました。「マリウス・プティパへのオマージュ」所収の彼へのインタビューの見出しは「最も偉大な巨匠」(P.154)です。「最も偉大は巨匠」ゆえに「因習的な詩学」を乗り越えてその都度の、その都度限りの創造性と生命性を見いだす場面を直視することの重要性を示していると考えられます。

今回、バレエとミュージック・ケアに共通する核心について大きな示唆を得たものと受け止めています。

2026/06/20

2台のX-H2

 X-H2の2台目が届いて2台体制になりました。XシリーズはX-30、X-E3、X-H1、X-T4、X-H2と使ってきましたがやはりX-H2の画質を同じ使い勝手でもう1台使っていきたいと考えました。巷ではT5の評判が良いようですが私は手に馴染むX-H2が好みです。フリマサイトで探していて「文句なしのコンディション」という個体を見つけました。面白いのは説明に「最新版バージョンでは削除されたチェキプリンターへのダイレクトプリント機能を使いたかったのでバージョンは最新まで上げていない希少な状態です。※もちろん最新版にアップデートは可能です。」とあったことです。こんな使い方もあるのかとけっこうマニアックだと思いました。私は最新のファームウェアにアップデートするつもりです。2台のX-H2の使い分けは、1台は標準〜望遠のズームレンズを着けて、もう1台は超広角望遠レンズを着けての運用です。山で使うときレンズ交換の回数を極力少なくしたいことによります。また、2台目のブラケットは1台目に着用のものと色だけちがう赤の同型のものを見つけて調達しました。モチベーションが上がります。

先日、井口喜源治先生に学ぶ会が終わってから蓼科まで走って宿泊し、翌日はバラクらイングリッシュガーデンを訪れました。カメラはX-H1とX-H2を用意して、X-H1にはTAMRON 18-300mm F/3.5-6.3 Di III-A VC VXD B061 、X-H2にはFUJIFILM XF10-24mmF4 R OIS WRを着けっぱなして回りました。フィルムシミュレーションは「S」(アスティア)に設定しました。いろいろ初めてのシチュエーションで補正も迷ってこれという写真を撮ることはできませんでしたが勉強になりました。

富士フィルムかキャノンか!? この堂々巡りにこれでなんとか終止符を打ちたいと思っています。かといってキャノンの機材をすべて手放すことができるかというとやはりその自信もありません。少しずつ整理することになると思います。

※7/1追記

赤のブラケットは付けたままだとバッテリー室の蓋がひっかかって開かないことがわかって没としました。質感が気に入っていただけに残念でした。ボトムのみのブラケット、黒を調達しました。

2026/06/19

第1回 井口喜源治先生に学ぶ会

先日、安曇野で開催された井口喜源治先生に学ぶ会に参加しました。今年度の読み合わせのテキストは穂高町立穂高中学学校編『孜々として 安曇野・穂高町の人物群像』(2000年)です。中学校編とあるので随筆集のようなものかと思いましたが研究書然としています。学校がこのような本を編纂するというのも信州ならではか。この本をテキストとするということであらたに読み合わせに参加した人も何人かいてこれにも驚きました。穂高の文化面の層の厚さを思いました。テキストそのものはページ数が多くないこともあり、必然、行間を読むことになります。その日の読み合わせの感想を述べる時間があって、私はキリスト教から人権思想を想起したことに触れました。人権思想はフランス革命期にそのルーツが見いだせるする説がありますが、キリスト教の教えの言葉を辿ると人権思想が自ずから生まれるのではないかと考えることがあります。次回は10月で、私は「井口喜源治の教育」のところを担当することになりました。ちょうど人権思想とキリスト教について本を読み思い巡らせているのでその視点も入れてコメントしていきたいと思います。

2026/05/21

障害の「実存モデル」

Xで障害の「実存モデル」という言葉を知ってリンクをたどると東京芸術大学のサイトでした。2018年度の「ダイバーシティ実践論」(担当教員:日比野克彦(東京藝術大学 美術学部長))の「当事者との対話4」「バリアフリーとは何か」という講義の概要で講師は東京大学の福島智氏でした。以下、一部の引用です。

障害を巡っては、現在、「医学モデル」と「社会モデル」という言葉がよく使われています。医学モデル=障害を治す。社会モデル=周囲のサポートを整備する。福島先生は、医学モデルと社会モデルからはカバーできない問題を、「実存モデル」で捉えないかと考えています。社会モデルではタッチできない問題、例えば、障害から起こる不便さに対してはサポートをするが、どのように障害と向き合うか?という問題は、本人の問題として放置されてしまいます。障害から起こる辛い経験から、どのように生きる意味を見出すかは本人にとって重要な部分であり、社会モデルを補うモデルとして、実存モデルを今後研究しなければならないと締めくくりました。

それから8年後の今年、毎日新聞にやはり福島氏が障害の「実存モデル」に触れた記事が載りました。以下、毎日新聞webからの引用です。(毎日ユニバーサル委員会 第22回座談会「見えない世界」共有するには 朝刊特集面 毎日新聞2026/3/15 東京朝刊)

 障害の捉え方には主に四つのモデルがあります。一つは、障害は心や体の医学的な現象の問題と考える「医学モデル」。二つ目は、障害を生み出す原因は社会的な設備などが整っていないためと考える「社会モデル」。三つ目は社会的な差別や偏見で人権が侵害されているかどうかで考える「人権モデル」。四つ目は障害者は独自の文化を有しているという「文化モデル」です。

 私は、これら四つのモデルだけでは障害者が現実に体験する「障害」を把握するには不十分と考え、五つ目として「実存モデル」を構想しました。例えば、視覚障害者の「見えない、見えづらい」というリアルな体験に共感することを目指すなら、まずは不便で一定の苦悩をもたらす感覚を共有すべきでしょう。問題はその後です。

 「社会モデル」的アプローチで、どのようにサポートするか考える。人権侵害にさらされていれば制度的課題として考える。視覚障害の体験を一つの文化として捉え、異文化交流の視点からアプローチする。いずれも重要ですが、「見えない」という現実は変わりません。不利益や不便さをサポートすると共に、なお残る「見えないことへの苦悩」にどのように共感していくかが大切だと思います。

 見えない苦悩を理解しつつ、そうした中でも人は他者と幸福な関係を築いていけるのではないかと発想を変えていく。現代社会はなにかが「できる」ことに対し、過度に価値を置きすぎていないか。「見ること」ができるかできないかという次元を超えたところに、人が幸福に生きるための鍵がある。

障害を巡る諸相については「医学モデル」と「社会モデル」がよく知られてきましたが「人権モデル」と「文化モデル」については名づけられたことによってそれらの相が際立って認識されます。「人権モデル」は「社会モデル」にそこはかとなく含まれていたと言えますが、そう名づけられることであらためて吟味されることになります。「実存モデル」という言葉、概念の経緯は詳らかに承知しているわけではありません。福島氏の提唱によるものなのかもしれません。しかし、「実存モデル」という言葉で想起されるのは「障害の受容論」です。端的に言うと「障害の受容の押し付け」です。「実存モデル」はそうした一方的な認識の押し付けへの抵抗、抗いとして名づけられた一面があるのではないだろうか。言うまでもなく当事者たちは日々問うてきたことです。その思索を深め、言語化し、共有や共感をまなざす営みへと誘う概念ではないでしょうか。福島氏の発信に期待するものは大きい。

2026/04/17

タブレットの憂鬱

ここしばらく、iPadの液晶にムラが出るようになったり相変わらずパソコンのiTunesにつながらなかったりとストレスをかかえて気づけば9年になりました。Lenovoのタブレットを追加したものの動作がかなり緩慢でまたiPadを新調しようと我慢の日々が続いていました。そうこうするうちにiPadの値段はどんどん上がって手が届きそうにないと思えてきました。そんなとき、Android搭載のXiaomi Tab 8 proがかなりよさそうで純正のペンシルがプレゼント、やはり純正のキーボードカバーが10,000円引きというキャンペーンの期限が迫る中で購入に踏み切りました。決して安い買い物ではありませんが「iPadがいらない」くらいの性能という記事が散見されたので決心がついた次第。果たして、届いてみるとその薄さ、軽さ、精緻なモニター、そして、何よりも表示が私が知っているAndroidtとは思えない円滑さでした。まさにヌルヌルです。快適です。申し分ありません。ストレージは本体の128GBのみで一抹の不安はありますがテキスト中心でクラウドを使っているので心配ないでしょう。純正のペンは品切れで後日届くとのこと、純正キーボードはパッドなしの軽いモデルにしました。ただ、普段はキーボードなしの軽いカバーの方がキーを気にすることなく持てるので使い勝手がよい。これも使い分けです。そうなると旅行などではノートパソコンよりもタブレットの方が何かと便利ではないかとあれこれ考えています。軽いカバーを着けてキーボードはBluetooth接続の折り畳みタイプというスタイルが現実的かと。

※追記 2026.4.26

やっとXiaomi Tab 8 ProにBluetooth接続の折りたたみ携帯キーボードをつないで実戦投入する機会がありました。全く申し分ない使い勝手でした。今年度は何度か出先でテキストを打つ機会があって機材をどうしようかと悩んでいましたが解決です。キーボードのメーカーはEwinで、2020年に購入したもののどこかにしまい込んで見つからず2024年に再度購入しました。なんとも不甲斐ない。

2026/04/08

来生たかお 夢のあとさき〜40th Anniversary Symphonic Concert〜

1984年というと42年前のことになります。来生たかおのアルバム、といってもレコードですが、「ラビリンス」がリリースされた年です。たしか、地元のレンタルレコード店で借りてカセットテープにダビングして聴いたはずです。惹かれるものがあって今なお聴き続けています。CD盤は買い求めました。なぜそんなにも惹かれるのか。その理由(わけ)を書こうとすると月並みな言葉しか出てきそうにありませんが、レヴォーグに乗り換えてからクラシックが思うように聴けなくなってからは来生たかおをよく聴くようになりました。「ラビリンス」とベストアルバムです。先日、レヴォーグのオーディオが直ったのでそれこそ浴びるように聴いています。そして、来生たかおの歌をもっと聴きたいとiTunes Storeを覗いていたら「40th Anniversary Symphonic Concert 2015-2016 ~夢のあとさき~」というアルバムを見つけて試聴したところまたまたはまってしまいました。バックはオーケストラとバンドで、2015年~2016年の録音なので来生たかおは65歳~66歳にかけての録音だと思います。遅めのテンポで歌う来生たかおのやわらかい声とやはりやわらかなオーケストラのアンサンブルがなんとも言えない豊穣な音楽を醸し出しています。そして、YouTubeでそのときの映像だろうか、ジャケットを羽織った来生たかおが老眼鏡と思しき眼鏡をかけて腰かけたまま楽譜を見ながら歌う姿は単に過去の作品をそのまま歌うのではなく歌とともに歳を重ねて余白をも包み込んでいるように思いました。YouTubeには2000年の旭川公演とする映像もあって、このとき彼は70歳のはずです。髪は豊かなロマンスグレーでやはり座って楽譜を見ながら歌っています。一つひとつの言葉、音をていねいに歌う姿は心を打つものがあります。歌とともに歳を重ねるというのはこういうことなのだろうかと思い巡らせました。早速このアルバムを取り寄せてレヴォーグで聴いています。このままどこか遠くに走っていきたいと、そんな思いが過ぎります。

2026/04/04

レヴォーグのスピーカー修理

レヴォーグのオーディオがクラシック音楽と相性が良くなさそうと前に書きましたが聞こえ方や音質がどこかかおかしいと思っていたところ左前のスピーカーから蚊の鳴くような音しか出なくなってスバルのディーラーで見てもらいました。すると左前と後の左右の計3つのスピーカーが内部で断線していることのことでした。先週、部品を取り寄せてもらって修理が終わりました。結果、大満足です。右前も音は出ていたのですが低音が細くてイコライザーの効きもよくありませんでした。修理で元に戻っただけとはいえレヴォーグが包み込まれる音場空間となって心理的に楽になりました。5個目のスピーカーであるサブウーファーも協調して低音域をよく支えています。もちろんクラシックも堪能できます。片道30kmの通勤も短く感じます。やはり私は音楽が好きということをあらためてしみじみと思いました。

名古屋大須のアメ横にあるオーディオ専門店では客の希望でアンプやスピーカーなどを組み合わせで試聴することができます。私はそこでいっしょに聴かせてもらったことが何度かあります。いつも思うのは音楽のジャンルはいろいろあっても音そのものが聴く人を幸せにすることができるということです。生きていることに幸せを感じるといっても過言ではありません。レヴォーグのオーディオもそれに近いものがあるように思います。音源はiTunesで同期したiPhone 5SをBluetoothでつないでいます。私の耳には十分な音質です。

一番のリスニングルームが車というのも情けないですが音漏れを気にせずある程度大きな音で聴けるのは車です。音の分離もなかなかのもので歌だけでなくバックの音の重なりやベースの動きなどもよくわかって聴き入ってしまいます。 


2026/03/28

Bandit 4回目の車検

Bandit 1250SAの4回目の車検を済ませました。バイクの車検はこれまで購入したバイク店で“お任せ”にしていましたが、そこまでバイクに乗って預けたり受け取ったりの移動、天気、そのための時間の確保などのすり合わせが煩わしいものでした。そこで今回は立ち合いで即日済ませる整備店で車検を受けることにしました。天気予報を見て電話で予約、当日は1時間で終わりました。この2年間の走行距離は2,000㎞弱なのでブレーキパッドとタイヤはほどんど減っておらず、立ち合いでタイヤ溝などの数値を含めた説明を受けました。「ブレーキオイルを自分で交換していますか?」と聞かれたのでどうしてだろうと思っていたら、リアブレーキのオイルが上限を超えてタンク一杯まで入っているので漏れ出してパイプを止める金具が錆びているのを「これ」と示して見せてくれました。ブレーキオイルは交換はおろかリザーブタンク内の量はカバーを外して見たこともなく前の車検のときの交換したであろうそのままでした。金具は置いてないということで後日近くのバイク店でオイルといっしょに交換することにしました。立ち合って話を聞くことで自分のバイクの状態をよく知ることができてバイクのもやもやが一気に晴れたように思いました。バイクのもやもやとは今のフルタイム勤務になってから乗る時間がほどんどなくなったこと、そのことでバイクが傷むことへの自分の不甲斐なさ、維持費も乗ってこそのものなのにというやり切れなさ、その上に加齢による体力の低下も懸念材料となっていました。バイクは自分で手をかけてこそ愛着が湧くものと実感しました。

2026/03/26

上笙一郎・山崎朋子『光ほのかなれども 二葉保育園と徳永恕』

大石茜の著書を読んでいるときいろいろ調べだして上笙一郎・山崎朋子著『二葉保育園と徳永恕』(社会思想社 現代教養文庫 1995, 初刊 朝日新聞社 1980)を知り取り寄せました。読みだしたら止まらなくなって400ページ余を3日で読んでしまいました。上笙一郎は『満蒙開拓青少年義勇軍』(中公新書 315 1973)を読んだとき内容もさることながらその語り口調に魅了されてしまって今回も然りでした。内容は驚愕という表現がもどかしいほどのインパクトがありました。読み進めるうちに著者が言及しているように徳永恕が成したことの大きさとそのために棄てたもの、そして、なぜそうなし得たのかという強さはどこからきたものなのかということが気になりました。著者は17~18年をかけて出版に至ったとのことでその内容は膨大かつ密度が高く、読み終わりはしたもののその読後感なり学びを言語化することは難しい。いつかここで触れることがあると思いますが今日は備忘として読了したことを記すのみとします。

2026/03/20

ライシテ展

いつしか3月も半ばを過ぎてまだまだ風が冷たいと思っていたところ今日は何かがちがうと思うほどの芯が感じられるほどの暖かさでした。そうか! 今日は彼岸ではないか! 暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものです。

今日は県立美術館の企画展「ライシテからみるフランス美術 信仰の光と理性の光」に行って来ました。職場の廊下に掲示されたポスターに「ライシテ」とあって何だろうと思っている間に企画展終了の22日が迫っていました。果たして「ライシテ」とは何か。展示室の入り口の説明を読んでもピンときません。同じ説明が美術館のウェブサイトにあります。

「ライシテ」とは、国家が宗教から自律し、人々に信仰の自由や精神的平等を保障する制度、そしてそれを支える思想のことです。フランス共和国の根幹をなす概念ですが、異なる宗教を信じる/信じない人々の共生のための理念から、政治権力と宗教の厳格な分離に至るまで、ライシテは複数の顔を持ちます。

単なる政教分離ではなさそうです。キャプションを読んで絵を観てもわからない。それなのに読んで観て読み返してまた観ての繰り返しをしてしまう。つまり面白いということです。入口に「図録完売」とあったのも頷けました。では、その面白さはどういうことなのか。よく言われるように学校の授業では教えてくれない歴史の見方がそこにあるのではないかという予感が惹きつけるのだと思います。政治と宗教の関係が社会の制度として語られるだけでなくそのせめぎあいに絵画など美術が可視化した「聖性」が深く関わっていそうです。説明に度々登場する「聖性」ですがこの言葉はどう定義されるのだろうか。フランスの政治と宗教は両者の距離をどう置いても両者は関係しあっているのではないかと思いました。これはフランスに限ったことではないはずです。欧米諸国におけるキリスト教は距離の置き方如何に関わらず深く強くつながっているのではないか。哲学然り。明治時代にキリスト教抜きでドイツ哲学を取り入れようとしたのは思慮深さに欠けたことだったと思います。今回のライシテ展のキャプションは私には手強いものでしたがそれだけに興味津々でした。

来館者は多いと思っていましたがまばらだったので時間をかけてゆっくり観て回ることができました。

2026/03/14

大石茜『保育の帝国史 ― 家族をめぐる統治の技法』

先月の新刊でネットで目次を見てぜひ読みたいと思っていた本です。(岩波書店 2026.2)予約こそしませんでしたが早速取り寄せました。まず目を通したのは「第10章 満州のキリスト教保育」でした。とにかく興味津々で一気に読みました。そもそも宗教団体が満州国に向かったこと自体に関心があったところに保育や教育が重なると胸騒ぎがします。この章は他に比べて分量が少ないのですが概要をイメージすることができたと思っています。続けて「序章」から順に読んでいます。500ページという大書ですが私のような門外漢でも比較的読みやすいので助かっています。かといって内容は深く重層的で読み進めるには保育だけでなく子ども学や歴史、哲学など幅広い知見が求められます。どこまで深く読むことができるのか心もとないのですが今月中に読んでおきたい本です。

ところで、この本も「怖い一冊」だと思います。「怖い」とは日常と並んでそこに目をやればあすのにそれとは気づかず過ごしていることを表します。私にとっての「怖い本」です。どうしてこんなことを知らずに今まで過ごしてきたのだろうとか、これでよく学校教育に携わってきたものだとか、自分の無知やアンテナの鈍感さへの不甲斐なさが悔やんでも悔やみきれないと頭も身体もフリーズしてしまうくらいのインパクトがある「怖い本」です。学校教育に教員として携わるようになって44年になります。今も現役の教員で担任をしています。それゆえの「怖さ」です。その正体に気づき始めたのは定年退職前に経験した地元大学教育学部の非常勤講師がきっかけでした。教員を目指す学生に伝えたいことがあるはずなのにその言葉が見つからないというもどかしさがありました。今もあるのですが今はその正体がなんとか言語化できています。そう、教員の言葉、日々の営みを言語化するときの言葉が見つからないということなのです。目の前で起きていること、それついて自分が感じたことを表す言葉のことです。先月公開研究会に参加した伊那市立伊那小学校の自由参観授業後の「授業者との懇談」で授業者の先生が「言葉を探すことを大事にしている」旨を留め直すように幾度か話していました。まさにそれなのです。学習指導要領の言葉でも心理学の言葉でもない、教員自身の言葉そのものです。何か正解があるのではない。自分の全経験、すべてから納得できる言葉をもって言語化ができるかどうか。そのためのトレーニングを大学の教員養成で行っているかどうか。それは心もとないのではないかと考えます。「教育哲学」が必修から外されたのは1989年だったとある本で読んだことがあります。哲学を学んだからといって私がいう言語化のための言葉がわかるというのではない。言語化のトレーニングを積むことが大事ではないのかということです。「教育の豊穣を語る言葉の可能性」という私の研究は終わりのない旅です。

2026/03/08

中野幸次『ブリューゲルへの旅』

中野幸次というとエッセイ集『ブリューゲルへの旅』(河出文庫 1980、単行本1976)を思い浮かべます。そしてチャイコフスキーであり、きっと交響曲第6番「悲愴」を巡る彼の記憶であろう記述が私の脳裏に焼き付いています。

同著「闇」より

少年の頃、路をへだててわたしの家の前に、椎や欅や樫の深い木立ちにかこまれた屋敷があって、その家の高校生が帰省するたびにそこからチャイコフスキーの甘美な旋律が流れてきた。高校生はわたしの憧れでの身分であり、わたしは前に柿の若木のある二畳の空間でひとり勉強中であった。少年の耳に、近い死への予感を果てしもなく感傷的に甘美にうたいつづける音楽は、少年の憧れる世界の音そのもののようにひびき、わたしは全存在をゆさぶられる思いでそれに耳を傾けた。わたしはあれ以後二度とあんなに完全な陶酔を音楽に感じたことはあるまい。


文庫本刊行の1980年は私が大学3年生のときできっとそのとき京都で買い求めて読んだものと思います。「悲愴」を聴くたびに中野幸次のこの記述につなげてしまうと言っても過言ではありません。旧制高校は16歳からの修業でチャイコフスキーを聴く高校生が憧れだったということは中野はおそらく旧制中学校の生徒だったと思います。旧制中学校の修業年齢は12歳から15歳なので、1925年生まれの中野からすると1937年(昭和12年)から1940年(昭和15年)の間のエピソードだったことになります。当時の日本は戦争に突き進む流れの真っただ中で向かいの家の高校生は死が迫り来ることを予感せずにはいられなかったことと思います。中野もまた彼が聴くチャイコフスキーに死の影が抗いようもない甘美さで迫るのを感じたであろうと思うのです。当時の若者たちは少なからずこうした心持ちだったことは想像に難くないと言ってよいのではないか。今もまた、然り、ではないのか。

2026/03/07

名張 夏見廃寺

名張市立図書館に用があって昼過ぎから出かけました。目的の資料は探していただいて無事コピーを持ち帰ることができました。地方紙の地域版はその地域の図書館でないとなかなか見ることができません。昨日からの喉の痛みともやもやした不快感のため山行をあきらめての名張行でしたが成果は大でした。

その後、夏見廃寺と資料館を訪れました。名張は自宅から車で1時間余のところですが車でも電車でもいつも通り過ぎるばかりで町を歩くのは初めてでした。図書館を訪れた目的と夏目廃寺は直接の関係はありませんが名張のことを調べていて気になりました。夏目廃寺は大来皇女が無念の死を遂げた弟のために建立したとされる昌福寺であるとのこと、そして、大来皇女が記録に残る初代斎宮であることから訪れて調べたくなった次第です。

資料館の名称は夏目廃寺展示館で市民プールの傍らにあります。小さな建物で人気がありませんでしたが自動ドアが開くと高齢の男性が現れて入館チケットの発券やパンフレットなどの案内をしてくれました。そして、説明をしましょうかということで話を聴かせていただくことにしました。説明を聴きながら展示を見て回るとおおよそのフレームがわかってありがたく思いました。名張は新しい町という印象がありましたが歴史を辿ると興味深いことがたくさんあることがわかりました。大来皇女の歌は前に目にしたことがあって、それは歴史か和歌の勉強でのことだったと思いますが今回は詠み人が傍にいるような生々しさを感じました。奈良と三重をつなぐ古道など自分の足で歩きたいと思ました。

2026/02/27

加島祥造『伊那谷の老子』の“付録”

“付録”というのは加島祥造著『伊那谷の老子』(淡交社 1995)といっしょに届いた新聞などの切り抜きのことです。本も切り抜き記事も茶色に変色していましたが入っていたビニール袋は擦れや折れもなくきれいで真新しいものでした。これは古書店の心づかいだと思っています。本もたいへん面白いのですがこの切り抜きもまたたいへん興味深いものでした。加島祥造が書いたり記事になったりの全7点です。

「老子とは生き方なのだ」(西垣通)(新聞切り抜き 1999年4月11日)

「閑ヲ愛スレバ」(城山三郎)(『本』2000年3月号)

「老子の時間、道元の時間」(中野幸次)、「ナガノのフォークナー」(加島祥造)(『図書』615号 2000年7月号)

「ふたりの娘とシンクロニシティ」(加島祥造)(『一冊の本』 2004年7月号)

「受いれる心5」(加島祥造)(『月刊 本の窓』2011年7月号)

「受いれる心8」(加島祥造)(『月刊 本の窓』2011年11月号)

「詩人が語る自由」(河合香織)(『本の窓』 2014年6月号)

私がまず目を通したのは中野幸次の「老子の時間、道元の時間」でした。やはり英訳と独訳を通じて老子に親しんだという記述がありました。

 (略)わたしは、加島祥造の『伊那谷の老子』(淡交社)を読んだ。『老子』は、従来の漢文読み下し式ではちっともわからず、興もわかず、中国古典のなかで最も無縁な古典だったが、加島が体験を語りつつ訳してみせる老子は実に生き生きとしていて、身近に感じられ、わたしはこれならわかると思った。彼は英訳がたくさんある中から読み取って、自分の自由な訳をつけている。

 加島はその後『タオ ― 老子』(筑摩書房)を著したので、それによって老子はますます私の身近なものになった。わたし自身も英・独訳を十数種類とりよせ、外国語訳を通じて老子に親しんでいった。

中野幸次はドイツ哲学が専門なのでドイツ語を解するわけで、彼もまた寺田寅彦や加島祥造と同じく日本語圏ではないところから老子を身近に感じるようになったと記しています。加島は英訳を通して老子を読むとき「老子を外国語として読む」と記しています。(『伊那谷の老子』)漢文を外国語として捉える、あるいは捉え直すことで何がどう変わるのだろうか。これは何を示唆しているのだろうか。外国語と捉えることで言葉の縛りのようなものから逃れて自分の言葉で語ることへの抵抗感が薄らぐのだろうか。ざっくりした言い方になりますが、とりわけ漢文は漢字で記述されていることから日本語に引き付けようとする研究の側面に縛られるのではないだろうか。もちろん、英訳でも「原典の古意に忠実な逐語訳」(加島) は読んでいて面白くないものもあるとのこと。

『源氏物語』 はどうだろう。加島の老子和訳の底本となったのはアーサー・ウェイリー訳だけではないにしても毬矢まりえ・森山恵和訳の『源氏物語』の底本もアーサー・ウェイリー訳なのです。アーサー・ウェイリーの功績はとてつもなく大きいというべきだろう。

2026/02/22

加島祥造『伊那谷の老子』を読む

前々から気になっていたこの本(淡交社 1995)をオークションサイトで入手しました。写真よりも薄汚れていて何だかなあと思いましたが葉書サイズのビニール袋が同梱されていてこちらも何だろうと思いました。入っていたのは黄ばんだ新聞の切り抜き1点と『本』など出版社が出していた小冊子の切り抜き6点でした。それぞれに「加島祥造」や「老子」の文字が見えました。気になったもののまずは本です。

この本が頗る面白くて「伊那谷の老子」の章は付箋だらけになっています。驚いたのは加島祥造が手掛けた老子の翻訳は原文である漢文からの翻訳ではなくて英訳された老子からの和訳だったことです。アーサー・ウェイリーの名前を見たときはまた驚きました。ウェイリーは『源氏物語』も英訳しています。その英訳を毬矢まりえと森山恵が和訳して2年くらい前に話題になりました。読みやすくて物語の世界がイメージしやすい本となっています。登場人物の輪郭、人となりがそのまま伝わってきて活き活きどころか生々しくさえ感じられます。加島祥造が和訳した老子もまた然りです。これはどうしたことか。

加島は『伊那谷の老子』にそのことを言葉を換えて幾度も記しています。その部分を引用します。

(略)それは、西洋人の、あるいは英国国民の思考と気質から自然に生まれた傾向であって、日本の老子訳の世界とははっきり違った特色といえるものだ。そのうち、とくに目立つ点を三つだけ言ってみよう。

 第一は訳者たちが程度の差はあれ自分の解した『老子』を提出していることだ。(略)訳出するときにはそこから自分の老子像を抽きだしている。

 いいかえれば彼らは老子と対面し、対話しようとする。自分のイメージする老子像を、その内面像を、描きだそうとする。さらにいえば、自分にとって老子とはなにか、を明らかにしょうとする。

 第二。英訳者たちは老子の実在を否定しない態度である。日本では江戸時代からすでに老子の実在を否定する議論があり、いまでもその方向から見る意見がある。(略)

 しかし、英語訳をした人たちは、そういう説を知っていてなお、『老子』の五千言のなかに、老子という一個の大個性を見出す。またそこにこの大個性の深い内観力を愛と大きな叡知がゆきわたっているとみる。老子の生きたスピリットがいまの自分のなかを流れ走ると感じる。そういう生気の動く英訳が多いのだ。(略)

 第三の、そして最も印象づけられた特色は、彼らが「老子」を詩(ボエトリイ)ととっている点だった。日本の学者も『老子』の多くの章が韻を踏む詩句だと説明している。説明としてはよくわかる。しかしこの『老子』を「詩」として再現しようとはしない。誰も、いまここで生動する詩行に転じようとはしない。(略)

 (略)彼らは『老子』のなかに動くものをとらえようとする。生きて伝わってくる大個性のスピリットを、自分の言葉で表現しようとする。過去の古風な詩体ではなくて、現代口語体の詩として表現しようとする。

物理学者の寺田寅彦も「電車で老子に会った話」という文のなかで同様の体験をしていると加島は紹介しています。寺田の場合は独語訳の老子だがふたりの「老子体験」は共通しているとも。これは何を示唆しているのか。「原典の古意に忠実な逐語訳」(加島)が研究として重要不可欠なのは言うまでもありません。その成果は読解に活かされなければならない。しかし、老子や『源氏物語』を味読する後世の一人ひとりにとっては「原典の古意」と自分との関係においてその作品の意味がある。一人ひとりが意味の生成を経験することが大切と考えます。『伊那谷の老子』の加島訳の老子を読むと私の横に座っている同時代人の声を聴くように感じます。何という経験であることかと驚き感嘆するのです。

※英訳者Arthur Waleyの名前の読みを加島は「アーサー・ウエーレー」と、毬矢まりえ・森山恵訳の『源氏物語』では「アーサー・ウェイリー 」と表記しています。

2026/02/13

長野行

 先週2月7日土曜日、長野県の小学校の公開研究会に参加しました。2年ぶりの参加でした。その学校を訪れるのは5回目となります。訪れるたびに「おまえはここで務まるか」と問われているように思い腰が引けていましたがこの目で見ずにおれない学校でした。さらに2年前は授業後の協議会で私が抱えていた問いの「答え」がいきなり飛んできて決して大袈裟ではなく打ちのめされてしまいました。自分には子どもたちと過ごす機会はもうないと思い込んでいたので抗いようもなく悶々としていました。そんなとき講師の声をかけてもらって再び「教壇教員」となり、教育とはどういう営みなのかを身をもって問う日々が戻ってきました。池袋児童の村小学校を調べていたことも支えになりました。教室を「子どもとつくる」場として、それは“技術”ではなく肌感覚として絶えず意識しておく姿勢です。それは簡単なことではないことを思い知ることとなりましたがそんな毎日を過ごしているということの充実感はその時々にしか経験し得ないものです。その小学校の先生方の心の内をあれこれ思い巡らせながらの参観となりました。今回もそこでしか学びえない多くのものを持ち帰ることができましたがその整理は時間がかかります。

2月11日(水)建国記念日はやはり長野県安曇野市で行われた井口喜源治先生に学ぶ会に参加しました。テキストは同志社大学人文科学研究所 (編集)『松本平におけるキリスト教―井口喜源治と研成義塾』(同朋出版 1979年)で、今回は手塚縫蔵の章でした。その一部を私が受け持つこととなり、この奇遇に驚きました。前述の小学校の入り口の「詩境の像」にまつわる詩から辿り辿って手塚縫蔵につながり、藤田美実の著作の導きで私の心をとらえるようになった経緯があります。私は藤田美実が言及する手塚縫蔵の「存在」について藤田の著書から一部を紹介する資料を作成しました。この日、8年かけで読み合わせを行った『松本平におけるキリスト教―井口喜源治と研成義塾』の最終回でした。参加者のお話から松本東教会を設立した手塚縫蔵への思い入れはこの地において決して小さくないと受け止めました。貴重な学びの場となりました。

当初、前述の小学校の研究会と井口喜源治先生に学ぶ会は同じ2月7日に予定されていました。午前は小学校の研究会、午後は井口喜源治先生に学ぶ会に参加という慌ただしい行程になるはずでしたが衆議院選挙のため学ぶ会の会場の公民館が使えず11日に延期となりました。1週間のうちに2回も長野に車を走らせることになってこの2回の長野行でレヴォーグは1,100km余距離が延びました。長距離をじっくり走るまたとない機会とその9割以上でアイサイトを試しました。結果、右足首を骨折してからアクセルを踏み続けることが辛くなってきていたので大助かりでした。いろんな場面でアイサイトを使ったところ、渋滞の中でもアクセルとブレーキを踏むことなく右手指先だけで走らせることがわかりました。これはすごいことだと思いましたが「ホントに止まるのか!?」と100%信じ切れない自分があって自分で運転するより疲れたところがありました。あと、フロントの左右に並んだLEDのライトを点灯するスイッチの位置が偶然わかってレヴォーグの“疑問”がひとつ減りました。灯火系とは別に独立して常時点灯するこのライトはアクセントになるほか昼間でも視認性が上がるように思えます。でも、この2回の長野行でレヴォーグの汚れは尋常ではなく昨日は洗車のためガソリンスタンドに寄りました。コーティングしてありますが撥水洗車+ホイール洗いをしてさっぱりしました。

パール・バック『母よ嘆くなかれ』

音楽療法の研修資料で前に作成したスライドからパール・バックの引用を使うことにしました。ポール・ノードフ、 クライブ・ロビンズ著、望月 薫訳『障害児教育におけるグループ音楽療法』(人間と歴史社 1998) に寄せたパール・バックの「序」の一部です。 遅滞のある、ゆっくりと考える人た...