この日曜日の朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)は小津夜景の『ロゴスと巻貝』からの言葉でした。「古典の中だと二つの時間を生きられ、漢文は見えるものと聞こえるものが分かれて快い」とあるとのことです。漢字の字面から受ける意味や印象と読まれたときの音から受ける印象によって「二つの時間を生きられ」るという記述に思わず頷いてしまいました。
高校の古典を担当しているとき、源氏物語などの日本の古典作品から漢文になるとその読みづらさに閉口する生徒も次第に漢文の歯切れ良いリズム感と漢字そのものから立ち上がる世界観に浸るようになるのがわかりました。面白いものでその逆も然りで、漢文から日本の古文に入るとやっぱりいいなぁとしみじみとします。和文と漢文の両方の情趣にふれることができる日本の言語風土は大事にしないといけないと思います。私たちは知らず知らずのうちに双方の世界観にふれて双方の言語観で物事を考え、心がおのずから動く日々を送っているわけです。小学生が漢字を学習するときの様子も面白いものです。ときに漢字の字面や意味の構成で考え、ときに漢字の読みで考え、その双方を落とし込んでいく営みは見ていると不思議でもあり驚きでもあります。
かつての暴走族らは英語の読みを漢字に置き換えて自らをアピールする記号としたことがありました。漢字のゴツゴツした字面をさらに際立たせたレタリングとその含意など漢字の特徴を捉えようとする意図が伝わってきました。彼らも「二つの時間を生きられ」ていたのだろうか。漢字を使ったキラキラネームもまた通底するものがあると思います。こちらも「二つの時間を生きられ」ているのでしょう。
「古文や漢文を学んで何になるのか、将来役に立つのか」と言われてしばらく経ちますが、古典にふれることで「二つの時間を生きられ」るのではないかという視点は示唆に富みます。「二つの時間」は人によってちがってきます。時間ではなく「空間」かもしれないし「世界」かもしれない。メタ認知につながったり自分と対話したりするきっかけににもなるのではないでしょうか。古典に浸る時間がほしいと思います。
2024/03/25
漢字と「二つの時間を生きられ」ること
2024/03/23
国立国会図書館関西館
国立国会図書館所蔵の資料をインターネットで閲覧しようとしたら登録が切れていて早く利用したかったのであたふたと奈良の関西館に行って手続きをしてきました。所在地は京都府相楽郡精華町で初めて行きました。けいはんな学園都市という名称で様々な研究機関などが整備されていて国会図書館関西館関西館もそのひとつと知りました。敷地は広大で駐車場は無料でした。エントランスに続く通路から見える概観はガラス張りの細長い箱のようですが中に入ると天井も高く落ち着いた雰囲気でした。
利用登録を済ませて見たかった資料を閲覧するとこれまで引用部分しかわからなかったところの前後や関連する情報を読むことができて目を見張りました。「そうか、そういうことだったのか」と。また、関西館所蔵の資料、学会誌はその場ですぐに閲覧することができてコピーして持ち帰ることができました。これまで限られた資料と対峙して悶々としていたのが何だったのかと思いました。
研究テーマから派生というか拡大してここしばらく大正から昭和初期にかけての教育史を調べています。資料があるようでないものが少なくありません。多分に私の探し方が拙いだけなのですが公文書として残っていそうなものが見当たらないというのは文書管理の問題が大きいのだろうと思います。
関西館は自宅から車で片道2時間弱かかりますが距離は145kmとさほどでもなく土曜日はしばらく奈良通いになるかもしれません。
2024/03/20
山下文男『昭和東北大凶作 娘身売りと欠食児童』
ここしばらく1920~1930年代の教育、いわゆる大正新教育について調べているのですが、その中で軍拡に向かう国策や経済恐慌、国民の衛生状態(エキリ、結核、栄養等々)、そして、地震や冷害といった自然災害と農林漁村の飢饉が同時進行していることが個々具体の出来事としてわかってきて気になっています。その中で昨日届いた山下文男著『昭和東北大凶作 娘身売りと欠食児童』(無明舎出版
2001)を読み始めたら止まらず、細かな数字は飛ばしながらですが一気に読んでしまいました。
全編を通してこの本が私を惹きつけたのは子どもや学校、教員にかかる記述が多かったことにあります。「娘身売りと欠食児童」という副題通りの濃い内容です。そして、国民生活を省みず軍拡に向かう国、軍部の動きを同時期のものとして並行して記述することで当時の日本が抱える構造的な問題が浮き彫りになっています。
今、日本は貧困が大きな社会問題となっています。学齢期の子どもたちの生活と学びにも大きな影響が出ています。大雑把な捉えですが、この本を読んでいると1920~1930年代の状況が今と重なって仕方がありません。
昭和の東北の凶作のときのものとされる3人の子どもが大根をかじっている写真について著者は「やらせ」であろうと思うと記し、また、娘の身売りについても娘たちの行き先が「その大部分が売春婦であったことはいうまでもない」と某著者が「無神経に断定」していることは「独断に過ぎない」と、その統計を根拠に指摘している。こうした検証は重要だ。
貧困はいつの時代も社会的弱者が被る。そんな暮らしをしている人たちと子どもたちを目の当たりにしたことも多いしこの先もないわけがない。歴史の主人公があるならばそれは誰なのだろう。
「細かな数字は飛ばしながら」と書きましたが、細かな数字、つまり、統計の数字があるからこそこの本の構造がしっかりしているのであってそのことは承知しています。欠食児童の数は所々確認して読みました。しかし、とにかく一通り全編に目を通したい一心でした。
2024/03/03
車山山行
昨日、八ヶ岳の車山に行ってきました。車山肩駐車場から頂上まで往復約2時間のコースでしたが冬2000m級の冬山の低温を身をもって知る経験となりました。諏訪茅野インターチェンジを下りてビーナスラインにアクセスする道路には所々深い雪の轍があって二駆のスタッドレスでは少々心もとなかったですがビーナスラインは除雪された雪が路側に積まれて狭くなっているものの路面はドライでした。午前9時前に駐車所に着くとすでに50台ほどの車があって準備をしたりすでに山腹まで登ったりしている登山客の姿がありました。
駐車場で靴を履き替えたりアイゼンを着けたり、そしてカメラの用意をしていたら指先が冷たいのを通り越して感覚がなくなっていることに気づきました。オデッセイの車外温度計は-9℃で誤差を考えてもこれまで体験したことのない低温でした。右手中指の爪付近は全く感覚がなくこれは危ないと慌ててウエアのファスナーを開けて指先を脇の下に入れました。次第に指先がジンジンしてきて感覚が戻ってきたのでウールのインナーグローブを着けて準備を続けました。その手袋は薄いのに防寒という点では効果てきめんでした。山に登るときはその上から厳冬期用のグローブを着けたのですが指先の冷えはずっと続いて時々脇の下に入れて温めました。中腹あたりで同行の知人が私の顔を見て「顔が青い」と言うのでびっくりしました。顔の寒さは指先ほどではなく大丈夫と思っていたのですが微風であっても風が当たる左の頬はかなり冷えていたわけです。ハードシェルのフードを被るとすぐに暖かさがわかってこれも初体験でした。天気は上々、風も3m予報で眺望も素晴らしかったのですがその寒さは初めて経験するもので低温の怖さを実感しました。体幹は雪山用のインナーを含め重ね着をしていたのでむしろ暖かいくらいでした。行動時間2時間程度のコースでしたが下山したときは生還したというくらいほっとしました。
カメラはメーカーが-10℃でも問題なく動作するとアナウンスするFUJIFILMのミラーレスを使いました。X-H1にXF50-140mmF2.8
R LM OIS WR、T-X4にはCANON EFS 10-22mm F3.5-4.5+fringer EF-FX
PRO2を着けての2台体制としました。低温には何ら問題なく動作しました。しかし、指先の違和感のため撮影に集中することができず構図も露出も何もかもが中途半端となってしまいました。よく見かける何でもない雪山の写真でも相当な準備と困難を経て得られたものであることがわかりました。プロはやっぱりすごいということです。
2024/02/27
ウクライナ国立バレエ
一昨日の「情熱大陸」はウクライナ国立バレエの芸術監督、寺田宜弘氏の特集でした。ボリショイ、マリインスキーとともにかつてのロシアの3大バレエとされた伝統を汲む名門の芸術監督が日本人というのはどうしてだろうと思っていました。元ウクライナバレエのソロダンサーとして活躍していたということですがロシアの軍事侵攻後に芸術監督に就任して国外退避で減ったダンサーを集めるところから関わったとか。日本人というとよく気配りが云々されますが、この番組で見る彼の姿、身のこなし、声掛けからからはさもあらんと思いました。自宅で料理をするときの手際の良さはその仕事ぶりとつながっていると見ました。彼はウクライナ国立バレエの劇場に魅せられたとのことですが戦禍の中を戻ってそうしてバレエ団を立て直すのはよほどの思い入れがあってのことだろうと思います。そして、バレエはもちろんキーウの美しい街並みと相俟って文化の厚みを思いました。
そして、番組の後半から主役の女性ダンサーの話になってと観ていたら、そうか、この1月早々の日本公演に行きたいと思って昨年の秋にいろいろ算段したのはこのジゼルだったと思い出しました。プロモーターのウェブサイトで調べると1月6日のステージの主役、ミルクーハの名前が一本線の見え消しになってゴリッツァに変更になっていました。主役は誰であれこのジゼルを観に行けたかもしれなかったと思うと残念だし同時にウクライナバレエが身近に感じられました。来年1月にも日本公演が予定されているらしくてぜひ行きたいと思うのです。
2024/02/23
篠崎徳太郎著『宿題革命』、再び
何度も読み返すのは子どもが亡くなったところです。(194-195p)
その後、ぼくの家庭には大きな変動があった。当時、四人(エミコ、ナオキ、ミホコ、マリコ)の子どもたちがいたが、いわゆるエキリ(腸炎)で二人(長男と三女)が一度にたおれてしまった。はじめマリコがたおれた。その翌々日ナオキがたおれた。「たおれた」とはどういうことなのか。読み進むと子ども4人のうちの2人の死ということがわかります。一度にふたりも。それはどういうことなのか。エキリは腸炎とありますが今では聞かない病名です。エミコが池袋児童の村小学校の閉校までの3年間通っていた頃の出来事なので1935年代前後、昭和10年前後のことになります。
続いてこうあります。
ナオキはたおれる前日まで元気であった。そ の前日の様子をエミコの日記にはつぎのように書いている。姉のエミコと手をつないで池袋児童の村小学校に手紙を届ける元気なナオキの姿があります。そして…
この翌日、ナオキは死んでいるのである。その手紙はマリコが死んだことを学校に伝えるものだったことをうかがわせる記述があって、私はそう読みました。その手紙を届けたナオキが翌日に死んだというのか。胸が締めつけられる。そんなことがあってよいものなのか。
ナオキが死んでしまうと、いままで四人のきょうだいだったものが、二人になってしまった。さびしかった。子どもは死ぬものであるということを現に、 体験させられた。昔は子どもはたくさん生まれるが少なくない子どもが子どものうちに死んだというよくある話なのか。そして筆者は続ける。
こういうことのためにも、子どもは将来のために現実をギセイにして過ごさせるようなことがあってはらない。もし、そうだとすると、親の身になってみれば、いくら泣いても泣ききれるものではない。また、いくら悔やんでも悔やみきれるものでもない。だから、子どもは自分の現実をせい一ばい生きぬいていけるように、育児も、教育も、すべての生活も、そう考えてやらなければ、ならないと思うのである。そのとおりだと思う。将来のために、今はがまんして、いつか報われる…そればかりではない今がある。池袋児童の村小学校のすごさをあらためて思うのです。そして、当時、そこには、小林かねよの『児童の村小学校の思い出』にもあったように病気のために長期の欠席を余儀なくされているたくさんの子どもたちがいたことを忘れてはならない。
2024/02/20
篠崎徳太郎著『宿題革命』
門脇厚司著『大正新教育が育てた力 「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』(岩波書店
2022)の第5章に元児童としてアンケートとインタビューが収録されている篠塚(宮下)恵美子の父の著書(本郷書房
1965)です。姓は「篠崎」か「篠塚」か。いろいろ検索すると篠崎のようでここでは篠崎徳太郎と表記します。
池袋児童の村小学校の児童の父として池袋児童の村小学校をともに生きたというべき生き証人の記述です。池袋児童の村小学校は1936年に閉校しているので29年後に書かれたことになります。文はひらがなが多くて書きぶりもやわらかい。ウィットに富んだ文章ですこぶる面白い。池袋児童の村小学校に通う娘のエミコの目を通した記述は今をもってしてもコンテンポラリー感があります。それだけに解散のときの重苦しさもストレートに伝わってきます。池袋児童の村小学校の教育を伝える記述にも目が留まります。
そもそも本の題名が『宿題革命』というのはどういうことか。宿題を切り口として教育を語るという筋書きになっています。
「第二部 エミコの場合」の「二 研究・実験・観察」から引きます。
・・・家庭へもちかえる学習が課題であるならば、教室の学習だって、やはり課題でなければならぬのではないか。観察や実験、作文など、池袋児童の村小学校について書かれた本を何冊か読んだわけですが、この本を読んだことで同校の子どもたちの姿を肌感覚で知ることになったと思っています。池袋児童の村小学校の教育は今流行りの「探求」の先取りとも言え、それは子どもたちの日々の生活のなかで、生活を輝かせる営みとして、知恵と情緒を育てるものであったのではないでしょうか。
しかも、この課題がいつでも外から与えられるものというだけであっては、子どもが発見した課題ということにならならないのではないか。教師から与える課題も、ぼくは全面的に否定しない。しかし、かりに教師から与えられる課題であっても、いわゆる線香花火的な、その場ですぐ答えの出るような課題では、子どもの計画性や、思考性というものを、全然無視したものである。やはり、ダルトン、プランのように、一ヵ月単位でしっかり計画をねって、それと取り組むというようなことが望ましいと思うのである。
このようなことを研究というのではないだろうか。エミコは学校から帰ってくると、よく、
「おとうさん、研究するのよ。」
という言葉を使った。
(略)
ぼくはエミコから、この「研究」という言葉を習ったのである。これはいい言葉だと思う。
「ぼくはいま宿題をやってる。」
という言葉と、
「ぼくはいま研究している。」
という言葉と、どっちが人生の根本にふれた課題の意味をもっているであろうか。
宿題否定論者たるぼくは、せめて「宿題」という言葉を、この地上から消したいと思う。そして、それにかわるものとして「研究」という言葉を使わせたいと思うのである。(126-128p)
2024/02/18
大河ドラマと「歴史的事実」
録画してあったNHKの大河ドラマ「光君へ」の第6回、先週の「二人の才女」を観て締めくくりの漢詩の会とその場で道長が詠んだ漢詩、そして、まひろに歌を寄せるラストシーンに魅せられてしまいました。漢詩の会は政の術として催されたものですが、その密度と緊張感、そして、何よりも言葉が美しかった。台詞も意味深く、この漢詩の会がこうしたものと現わされるにはいかほどの教養が積まれたことかと思うとため息が出ました。和歌と漢詩という短詩形文学の面目躍如といったところでした。詳しくはこちらのサイトにまとめられていて私からあれこれ言うものではありませんが、こうしたドラマを観るとどうしても史実はどうだったのだろうと考えてしまいます。紫式部と清少納言が宮中で同時に勤めたのは1か月ほどでその間に顔を合わせたことはなかったという話を文学系の本で読んだことがあります。道長との歌のやりとりもどうだったのかと。でも、フィクションでいいではないか!というのが私の考え方です。学術研究でもあるまいしと。
かつて、やはりNHKの大河ドラマで「篤姫」がありました。吉俣良の音楽も好きで毎回楽しみに観ていました。そんなある日…(以下、2009年2月2日のブログより再掲)
音楽にもドラマにもすっかり魅了されてしまった「篤姫」です。ところが、『本』2009年2月号(講談社)に掲載の町田明広氏の「『篤姫』に描かれなかった幕末史」を読んでいて驚くというかおかしくなったことがあります。NHKの大河ドラマ「篤姫」の「功罪」についてのところです。
一方の『罪』は、そのストーリーによって『歴史的事実』が書き換えられてしまったことである。まさか、篤姫と小松が本当に幼馴染みであったと信じている読者はいないと考えたいが、そのほかにも困った点は数多く存在する。たとえば、小松帯刀を世に送り出してくれたことは、賞賛に値する大事件であったが、倒幕に反対する平和主義者という設定はいかがか。また、島津久光の扱いにも、個人的には不満が残る。登場シーンでは毎回のように力んでおり、保守的な側面ばかりが強調され、残念無念である。本当の久光は、古今稀に見る政治家であり、卓越した政略・眼識の持ち主である。久光なくしては、幕末史は回天せず、西郷・大久保も歴史に名を刻めていなかったはずなのだ。私はその「まさか」で、篤姫と小松帯刀はほんとに幼馴染みだと信じていました。さすがに幕末に江戸城で碁を打つシーンはフィクションだと薄々感じていましたが、そうは思いながらも食い入るように見つめる自分がいて、それもいいではないかと思っていました。ところがである。篤姫と小松帯刀が幼馴染みということそのものがフィクションだというのです。これにはおかしくなりました。あそこまで真剣に観ていた自分は何だったのかと。でも、それでもなお、それでいいと思うのです。それくらい私にとっては感動するドラマと音楽でした。篤姫が自分で確かめないと気がすまない人として描かれていたところ、そして、篤姫は自分の思うことを信じるところにたいへん共感しました。逆に、ドラマの島津久光はいささか役不足で不自然に思っていたので町田氏の一文で納得しました。それにしても筆者の歴史学者、町田明広氏は小学生の頃にNHKの大河ドラマにのめり込んだことが後々大学で学び直すことにつながったとか。『本』に掲載のエッセイは実におもしろい。(再掲ここまで)
この話は後日談があります。その町田明弘氏本人から私の記事にコメントをいただいて著書ももよろしくとさりげなく添えてありました。これにも驚きました。
今年は紫式部が源氏物語が取り上げられたことで当時の和歌や漢詩など文学にまつわるエピソードが取り上げられることが楽しみです。
2024/02/17
斎藤環書評*中村佑子著『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』
今朝の毎日新聞の「今週の本棚」は斎藤環評の中村佑子著『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』(医学書院 2023)でした。斎藤環の言葉は鋭く私に刺さりました。
自分で書いていて嫌になる。当事者の体験を語る語彙(ごい)が、精神医学には圧倒的に不足している。本書の言葉は、遥(はる)かに複雑で豊かな襞(ひだ)と陰影を帯びている。著者は自分の経験が言葉によって固定されることに抵抗する。意味の定まらない小文字の記憶が自分を支えていると感じつつ、ケアとはそうした不確実性の中に身を置くことだと主張する。だからこそ、ケアを必要とする家族の存在は、「傷であり、刃であり、深い穴である一方で、光であり、憧れであり、生きる意味」なのだ。社会で広く使われている日常言語はマジョリティにデザインされていてマイノリティの状況等々の言語化には役立たないこと、そして、「小文字の記憶」とはラカンの「小文字の他者」に重ねたもので一人ひとりの語りと物語なくしては唯一無二の「その人」との距離を狭められないこと、ケアとはあらゆるアンビバレントを内包する営みであること、そうしてケアは為され、身体化されてゆくものであることを示唆している。
だが、私に刺さった理由はそれだけではありません。引用冒頭の「自分で書いていて嫌になる。当事者の経験を語る語彙が、精神医学には圧倒的に不足している。」の「精神医学」が「教育学」と置き換え得ると考える私には我が身への問いなのです。
2024/02/16
音楽を聴くということ
先々週末の長野行の翌日は八ヶ岳高原に足を延ばしてもう1泊したところ、朝、目覚めたら窓の外は一面の雪景色でした。移動距離は800km余だったと思います。移動中、オデッセイでブラームスを聴き続けました。ピアノ協奏曲第1番と第2番はとりわけ繰り返し聴いて、あと、交響曲第4番、そして、弦楽六重奏曲第1番と第2番だったか。大学の頃によく聴いていた曲ばかりでしたが曲の展開は記憶が薄れていて、そうか、次はそうなるのかと新鮮でもありました。そうやってブラームスを聴いているうちに、音楽を聴くということはどういう営みなのだろうかと考えてしまいました。
先日、バッハを特集したNHK-TVの番組を観ていたところ、「マタイ受難曲」の初演は横やりが入って失敗に終わったが後年メンデルスゾーンによって再演されその素晴らしさが認められた旨のエピソードが紹介されていました。「マタイ受難曲」はそれまで聴かれることなく埋もれていたわけです。当時、音楽を聴くためにはその場その時の生演奏が必須であったわけで、家でもう1回、そして、繰り返して聴くということは不可能でした。音楽はジャンルを問わず何度も繰り返し聴くことによってその楽曲をより深く知ることができるところがあります。曲の展開がわかってくると期待しながら聴くことにつながります。とりわけクラシック音楽は曲の長さや複数の主題とその展開、転調などが複雑に組み合わさって聴くこと自体に謎解きのような要素があります。私はオデッセイを運転しながらそんな聴き方をしていました。バッハの頃とは音楽との付き合い方が大きくちがう音楽体験をしているのだと思います。記憶を辿りながらそうやって聴くブラームスは今の私にとって特別な音楽に思えます。尽きない引力です。
パール・バック『母よ嘆くなかれ』
音楽療法の研修資料で前に作成したスライドからパール・バックの引用を使うことにしました。ポール・ノードフ、 クライブ・ロビンズ著、望月 薫訳『障害児教育におけるグループ音楽療法』(人間と歴史社 1998) に寄せたパール・バックの「序」の一部です。 遅滞のある、ゆっくりと考える人た...
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9月の日曜日のポコ・ア・ポコは9家族のみなさんに来ていただきました。私は夏の疲れが出て始まる前から少々おぼつかないところがありましたが、子どもたちが来てくれるといつもの元気が戻って密度の濃いセッションとなりました。曲の終わりの「静」をみんなで感じることの達成感はいつも素晴らしい。...
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この4月に勤務先の病弱特別支援学校が再編されて校名も新しくなる節目を迎えるに当たり、病弱教育の歴史の一端を紹介する機会がありました。 「病弱教育は明治時代に三重県で始まったとする説があります。「三重県学事年報第九 明治二十二年」には、三重県尋常師範学校の生徒の約6割、70人余が脚...
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検索キーワードに矢野智司を設定して時々チェックしています。先日、彼の近刊が矢継ぎ早に出ていることがわかってあたふたと取り寄せています。 『教育の世界が開かれるとき:何が教育学的思考を発動させるのか』(矢野智司・井谷信 彦編)(世織書房 20220412) 『京都学派と自覚の教...